人生は長い。自分の人生を自分でまっとうする#42


遠く離れた鹿児島で暮らす大正13(1924)年生まれの母(88歳)と、昭和2(1927)年生まれの父(85歳)。
母は介護保険で要介護1の介護認定を、父は要支援1の認定を受けています。
が、これは別に病気による障害のためではなく、加齢によるものです。
母は週3回のデイサービスに通っていますが、ケアを受けたりいろんなサービスを受けたりするだけでなく、これまでの経験を活かして俳句教室や俳画教室の講師をして過ごしていました。
「生涯現役よ!」という言葉にその充実ぶりが表れていました。一方父も元気そのもので、少々足腰の弱った母に代わり電動カーに乗って近くのスーパーや商店街に買い物に出かけたり、老人会の会長を務めてあちこちの会合に出たりと、家に閉じこもることなく暮らしていました。もちろん高齢ですから、自由自在に、活発に身体が動くわけではありませんが、身のまわりのことはいろんな工夫をして、支え合って暮らしていたのです。
私を筆頭に3人の息子は東京の大学に進み、卒業後故郷には戻らず、そのまま就職して家庭を持ち、両親のもとには年に数回顔を見せるように帰る程度でした。それでも兄弟3人顔を合わせると、必ず両親のことが話題になり同居が難しくても東京に呼び寄せてみんな近くで暮らそうと相談していたのです。「スープの冷めない距離は無理かもしれないけれど、何かあったときにすぐに駆けつけられるところで」と。 ところが父は私たちのそんな心配をよそに、
「お前たちの世話にはならないよ。2人が元気な間は何とかなる。でもどちらかが先に逝ったらそのときは相談するかも」
などと言って話を煙に巻くのです。
母は母で、
「いまさらだれも知る人のいない東京には行きたくないし、生まれ育ったまちで一生を終えたい」
と真顔で言うのです。
2人が元気な間はそれも仕方ないかなどと私たちも考えていました。
その一方で自分の両親は元気だ、すごい生命力だなどと思い込み、両親が倒れる日がくるなどということは想像だにできませんでした。それはいまふり返れば、大きな「油断」だったと言えるでしょう。
88歳と85歳の両親の、元気な生活が10年も20年も続くはずがなかったのです。その日は突然訪れました。
平成22(2010)年の6月1日深夜。我が家の電話がけたたましく鳴りました。それは母からの、父が倒れたことを知らせる電話でした。
脳梗塞でした。
電話の向こうの母は冷静でした。医師から受けた説明をメモにし、電話口で読み上げてくれました。 幸い梗塞の規模は小さく、いのちには別状はないし、手術の必要もないこと。当面は投薬治療を続けること。現状では右上下半身が麻痺しているが、高齢ということもあり本人の意志にも寄るが、リハビリをちゃんとすればある程度は回復するということ。それでも介護の必要な状況になるだろうということ。それが父の容体でした。
「まずは一安心だわ」
母はそうつぶやきましたが、私にはそうは思えませんでした。
父はこのまま寝たきりにならないだろうか。それでなくても入院期間は長引くのではないだろうか。そうなると母1人の暮らしは維持できるのだろうか。退院できたとして、両親の暮らしをどうしたらいいのだろうか。
一瞬のうちにいろんなことを考えました。
母は、
「大丈夫だから急いで飛んでこなくていいよ。私は1人でも大丈夫」
と言いましたが、そんなことできるはずありません。
「明日朝一番でこちらを発つから」
そう言って電話を切りました。 ベッドの父は身体こそ動かせないものの、意識ははっきりし、顔色もよく、思ったより元気そうでした。
心配していた言語障害もほとんどなく、「何をしにきた」と軽口をたたけるほどでした。
主治医の先生も「この年齢でこの元気。少々驚きました」と笑いました。
でも私には心配なことがありました。
それは父が人一倍せっかちなことです。医師の説明では90日は治療で入院し、その後転院してリハビリをして、ちゃんと身体の機能を回復して退院ということでした。
「後遺症も見極め、症状が固定した上でないと介護認定も受けられない」と。
私にはその期間、父が病院でじっとしている姿など想像もできませんでした。きっとすぐに家に帰りたいと言い出すに決まっていると。
しかしそれは主治医の先生からも無理だと釘を刺されていたようです。いちばん心配なのは「夫婦共倒れ」だと。
父の健康を回復することと母の生活を守ること。この2つのことをどうしても両立させなければならないのです。
私は1つの決意をもって両親のもとへ帰りました。
父が倒れたという知らせを受けた直後、妻と話し合いました。
東京を引き払って鹿児島に帰ろうと。あと2年で定年ということもあり、子どもたちもそれぞれ独立し自分の道を歩きはじめていることだし、これがいい機会だと思ったのです。そしてそのことを妻もあっさり認めてくれたのです。
そのことを父の病室で両親に話しました。
母は一言「ありがとう」とだけ言うと、じっと父の顔を見つめていました。きっと喜んでくれているはずだと思いました。
「でも、同居はごめんだからな」
そういう父の目が涙で光っているように見えました。
「わかったから、だから何も心配せずにゆっくり治療しようや」
私の言葉に父は黙ってうなずくだけでした。
母と一緒に実家に帰り、私は2人の暮らしの風景に、あらためて何も考えてこなかった自分に気づきました。
家のそこここに、年老いた両親が支え合いながら、工夫しながら一生懸命自力で暮らそうとしていたことをうかがい知ることができたからです。
父親が日曜大工で取り付けた手すり。段差を小さくするための踏み台。玄関の敷居をまたぐ小さなスロープ。壁には大きな文字で書かれた連絡網の一覧表。座面が昇降する母の座椅子。それまで気がつきませんでしたが、部屋と部屋を区切る敷居は床と同じ高さで家中がバリアフリーになっていました。
年に数回、しかも数日帰ってくるだけの私は、両親の加齢とともに少しずつ変化する家の様子に気づいていなかったのです。
「年を取るということは、こういうことなのです」 母は当然だというふうに言いましたが、私の胸中は、私たち子どもに迷惑をかけまいとする両親の思いやりに感謝の気持ちと申し訳なさで、いっぱいになりました。
母は言いました。
私たちの世話にならなくても生きていくことはできる。常日頃2人で施設に入ってもいいと話し合っていた。
でも、私が決断したことにとても感謝していると。
私は思い出しました。
両親が父の両親、母の両親を、ずっと面倒見てきたということを。
同居こそしていませんでしたが、すぐそばにいていろんな世話をしてきたことを。
「順送りだよ」
自然にそのひと言が口をついて出ました。
妻が私に先駆けて両親のそばについてくれました。
私はやり残した仕事を片付けて平成23年3月いっぱいで退職することが決まりました。
父の経過は順調でした。
リハビリにも意欲を見せ、右上半身の麻痺はほとんど回復しました。
が、下半身には少々麻痺が残り自立は不可能となりました。
介護認定の結果父は要介護2と判定されました。そして退院は平成24年1月末と決まりました。
父は「倒れる前にいろいろと家に手を入れておいて正解だった」と笑います。
もちろんそれだけでは不十分で、介護保険の範囲でちゃんと住宅改修も終えましたし、父のために新しい室内用車いすと立ち上がりを補助するための座面昇降型の座椅子をレンタルすることにしました。それに父の介護のためのヘルパーさんにも来ていただくよう準備は万端です。
「人生に前向きだわ。見習わなくっちゃ」
最近の妻の口癖です。
要介護2という認定に父は不本意なようでした。
「何でも自分でできる」といって聞かないのです。
すると妻が決まって言います。
「これは、お母さんと私たちのための介護だと思って下さいね。みんなで楽(らく)しましょうよ」
母も言います。
「みんなの負担になっていると思うとつらいけど、みんなで楽をしようと思えばいいじゃない」
もちろん「楽」というのは誇張です。
でもそれで、だれにも迷惑をかけてはいないと思えるし、そのことでずっと前向きに生きていける。
少なくとも私の両親はそう思っているのです。
ここだけの話ですが、父は自称「質実剛健な薩摩隼人」ですが、その実態は母に言わせれば、「私がいなければ何もできない甘えん坊みたいな人ですよ。いい年をしてねえ」となります。
そんな2人は、私たち夫婦に頼り切りになることはありません。
何か困った事があればすぐにヘルパーさんやケアマネージャーさんに相談しているようです。
大概の場合、困り事が解決してから私たちには知らせてくれるのです。もう少し頼りにしてくれたらいいのにとも思いますが、それは両親が元気な証拠だと思うことにしています。
ヘルパーさんやケアマネージャーさんからはよく言われます。
「こちらのご家族は大変うまくいっている例ですよ。私たちもいいなあと思いながら見ています」
でもそれは、一重に両親が自らの「老い」に対する準備をしっかりしていただけのことだと思います。私たちはそれに救われたのだと。
「おいは子ども孝行やっで」
父の笑い声が家中に響いています。
私たち夫婦が帰郷して2年。母は90歳、父は87歳になりました。
大切なことは、人に頼ることだけではなく、自分の人生を自分でまっとうすることだと教えてくれています。
人生は長い。まだまだこれからです。

イラストではご主人との目線を合わす為に高さを上げております。







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