母の介護人生から学ぶ#6


私の母の話を少々お聞きいただきたいと思います。
母はこの30年間を、その相手は変わっても、ずっと主介護者として過ごしてきたと言ってもいいでしょう。
「家族のことだからね」
母はそう言って笑います。が、それは介護に関わる仕事をしている私の想像をもはるかに超える苦労の連続だったと思います。今でこそ介護保険という社会で介護を支えるという制度ができ、それなりに介護者の負担軽減は進んでいますが、母が初めて主介護者となった30年前は、すべて家族の、しかも主に妻、嫁の「仕事」でした。
30年前、最初に倒れたのは祖母でした。ちょうど70歳くらいだったと思います。脳梗塞でした。自分では寝返りができる程度で、起き上がることも、立ち上がることも、もちろん自立して歩いて移動することもできませんでした。今でいうなら、おそらく要介護4くらいに当てはまると思います。しかも祖母は当時の女性としてはとても大柄で、体重は優に80キロを超えていたと思います。
私の記憶では、からだに麻痺はあったものの口は達者で、とても訴えの多い人でした。そのうえ自尊心のとても高い人でもありました。
「おむつなんかしない!」
それは自尊心の顕われでもありました。
私の生家はタバコとコメを主に生産する農家でした。両親、祖父は日中畑に出て作業にあたっていましたが、母は作業の合間にも時間を決めて排泄の介助に帰宅していたといいます。母が帰り着くと祖母は、「漏れるー、漏れるー」と騒いだそうです。時間を決めても、結局は時間通りにはうまくいかない。夜中もおかまいなしに「漏れるー、漏れるー」と騒ぎました。その度に母は……。まるで母を実の娘のように甘え、使う。母のストレスを思うと大変なものがあっただろうなあと。しかし、母が言うには、祖母は1度たりとも失敗する、間に合わないなどということはなかったそうです。
もちろん介護保険制度以前のことですから、介護はすべて家族の手と工夫で行っていました。忘れもしません。夏になると祖母の入浴のために、庭に木枠をつくってブルーシートを張り、そこにお湯をためて、行水ですね。そこまで移動するのが大変で、物干竿に布を張ってつくった簡易の担架で運びました。運ぶのは男の仕事、からだを洗うのは母の仕事。お湯を抜き、からだをふいて寝間着を着せ、再び担架で寝室に。自尊心の高い祖母は、家族とはいえ決して男性に自分のからだをさらすようなことはありませんでした。


しばらくして祖父が倒れます。祖父の後遺症はさほど重くなく、今でいう介護度は低くある程度自立した生活が可能で、亡くなる直前4カ月ほどは寝たきりでしたが、母に言わせると、それまではさほど手はかからなかったそうです。しかし母はそのことを「おじいちゃんには何もしてあげられなくて、申し訳ないことをした」と悔やみさえします。確かに私が実家に戻ると、いつもぽつりと1人でこたつに座り、大好きな相撲がないときはテレビもつけず薄暗い部屋の中で家族の帰りを待っている姿を見かけたことがあります。そんな祖父のことを母は1人ぼっちにして申し訳ないと思っていたのでしょう。
もちろん父を含め、家族、親族の協力もありましたが、嫁いだ先の義理の両親に対して、どうしてここまで献身的な思いを持つことができ、介護ができるのだろう。私には不思議でたまりませんでした。
「何故」と聞いたことはありませんが、母は1人娘であったにもかかわらず、独居で暮らしていた自分の母親の介護を十分できず、その上最期を看取ることもできなかった。祖母が倒れる以前のことですが。その後悔の念、慚愧の念に後押しされていたようにも思えました。

祖父が亡くなり、ようやく母が介護から解放された頃、両親と、よく冗談のように話をしました。
「もう誰も倒れんでね。これで親父にでも倒れられたら、母ちゃん大変だからね」
ところがその心配が現実のものになりました。2004年のことです。父親がパーキンソン病だと診断されました。しばらくは病状も安定していたのですが、ここ2年ほどの間にずいぶん進行して、日常的に誰かの介助がないと過ごせない状態が多くなりました。
父は祖母の気質を受け継いだような人で、自尊心が高く何事も決して「できない」と言いません。それだけ体力にも自信があったということでしょう。家族の介護の負担を軽減しようという介護保険制度が2000年4月に施行されていましたが、できないことでも「できる」と言い張る父の介護度は要介護2。両親2人暮らしで母親が主介護者。祖父母のときと比べても母の負担という意味では大きな変化はありませんでした。というよりも、母が「家族のことだから」「お父さんのことだから」と片時も側を離れず見守りをしたがっているとも言えます。
「家族のことだから」「お父さんのことだから」という言葉は、「家族のことだから」「おばあちゃんのことだから」「おじいちゃんのことだから」と、ずっと思ってきたことに違いありません。
「昔に比べたら、ずいぶん楽だよ。通所でリハビリも受けられるし、その間は息抜きにもなるし」
と母は笑います。

ある日のことです。実家に戻ると庭先で父親が倒れ込むような姿で、何かごそごそしています。

「草をむしってる」
「倒れてるんじゃないのね? 起こそうか?」
「よかっ、この方がようむしれる」
「そう」とだけ言って私はその場を離れました。でも今は、こころの中で
〈頑固なんだから……。好きにすればいいよ〉
そうつぶやいていた自分に気づいています。
もし、訪問先でご利用者のそんな姿を見つけたら、すぐに助け起こしたと思います。ところが、父の場合家族という感情が先立ちます。私が子どもの頃の強くてたくましい父親の姿。それが病気に冒され、崩れてゆく。父も認めたくないし、私も直視できない。
〈こんなんじゃなかった〉
私はもちろんですが、父もそう思っているに違いありません。だから少々危険でも、自分でできるということはただ見守るだけで、とことんやらせてあげたいと思っています。
歩く練習にと思って何本も杖を買って持っていきましたが、いっこうに使おうとしません。なのにそこらに落ちている棒や竹を杖代わりにして歩いています。
「杖と棒とは違う。わしゃまだ杖はいらん!」
この頑固さがなくなったら、父も終わりだろうなと思い、今は父の思うに任せています。
母の「家族のことだから」「お父さんのことだから」という思いを、私は私なりのやり方で実践していきたいと思っているのです。決して母のように献身的でなく、ときには本当に腹を立てながらも、いつまでもずっと父親であり続けてほしい、と。

母の人生は、私に多くのことを教えてくれました。
介護される側、する側にもそれぞれ個性があるということ。おたがいの個性をちゃんと理解しないと、「介護の必要な生活」は成り立たないということ。
とりわけ自尊心は大切で、祖母の場合も、父の場合も、頑固さは自尊心の裏返しなのです。それは、身近に献身的に介護してくれる家族の存在があるとわかっているからそうしていられるのです。これを「甘え」という人がいるかもしれませんが、それを受け止める者こそが「家族」という存在なのだと思います。このことは介護保険制度でいう介護負担の軽減とは別次元の話なのです。
ご利用者から、あるいは家族の方から、まるで家族のように接していただく。あるいは感謝していただく。そんなとき、
〈ああ、この仕事に就いてよかったな〉
と思います。
そして母の祖父母、父に対する献身的な介護の背景にあるものに、触れられたような気がするのです。