父の日課#12

2人が出会ったのは、今からちょうど50年前。昭和35年、1960年の春だったそうです。女学校を卒業して母が勤めていたとある郵便局に、毎週のように分厚い封筒を持って通う若者がいたそうです。
あるとき母が窓口でその封筒を預かった時、若者は深々と頭を下げ、
「よろしくお願いします」
と小さな、しかしはっきり聞き取れる声で言ったそうです。
〈郵便なんてちゃんと届くに決まっているのに〉
母はそう思いながら、ついクスっと笑ってしまった。すると若者はもう1度深々と礼をすると、あわてて出て行ったといいます。
〈不思議な人だな〉
預かったばかりの封筒に目をやると、東京の大手出版社の編集部が宛先に書かれていました。
〈毎週決まって出版社に……、作家さんかしら〉
母はそう思いましたが、すぐに打ち消します。作家というには、その若者は、ずいぶん野暮ったくて貧相に見えたからです。
〈多分作家志望で、出版社に原稿を送りつけているだけだわ〉
と。そのころの母は、まさに文学少女で、石川啄木や若山牧水が好きで、女学校時代から1日1首と決めて歌を詠み続けていたといいます。そんな母からすると、野暮ったくて貧相な若者が作家であっては、ましてや小説家だったりしてはならない。そう思ったのです。

それからも若者は毎週分厚い封筒を持ってやって来ました。
深々と頭を下げ、
「よろしくお願いします」
と小さくつぶやいて帰っていく。それはいつも同じ光景でした。
何度目かに母が受け取った時、いつものように頭を下げる若者に言ったそうです。
「そんなに最敬礼しなくても、郵便はちゃんと届きますからね」
若者はとっさに微笑みを浮かべ背中を向けたそうです。
〈悪いこと言ったかしら……〉
母は少しだけ後悔しましたが、すぐにそんなこと忘れてしまいます。正直に言えば、うだつの上がらない作家志望の若者のことなど、どうでもよかったのです。

数日後、勤め帰りの母は偶然その若者を見かけます。若者は、町を貫くように流れる川の畔に腰を下ろし、流れをじっと見つめていたそうです。ちょうど西の山間に日が沈みかけ、山稜をかすめて差す陽の光が川面に反射して、あたりのものすべて、そう、風までが美しくきらめいて見えた。母はよくそんなふうにその日のことを話してくれました。
母は何気なく若者から少し離れた場所に腰を下ろしました。
「あっ、山元さん」
若者が自分の名前を知っていたので、母はとても驚きます。
「どうして私の名前を?」
母の言葉が強くて問いつめるように聞こえたのでしょう。
若者はあわてたようすで言葉を返しました。
「いえ、ほら、いつも名札を……。だから、局員さんの名前は全部知っています」
それをきっかけに、その日母は若者と日が暮れるまで話をしました。
若者の名前は松下竜三。そう、父です。
その時母は、初めて父の封筒の中身を知ります。母が推測していた通り、編集者に送っていた小説だったのです。
「まだ1度も掲載されたことはない」父は照れたような笑顔で言ったそうです。「よろしくお願いしますというのは、郵便がちゃんと届くようにということではなく、今度こそは掲載されるようにという願い事なのですよ」
「でも、そんなに毎週毎週よく書けますねえ」
母がそうたずねると、父はうつむきがちに話しました。
「ぼくには時間がないのです」
「時間がない?」
「はい、大学を出て5年だけって約束で小説を書いているのです」
「どうして5年だけなのですか?」
「5年たって作家としてうまくいかなければ、家業を継ぐと父に約束したのです。その期限があと1年……」
父の実家の家業は、小さな食品商社でした。祖父は父に卒業と同時に家業を継ぐよう迫ったと言います。小さいといっても20人ばかりの従業員を抱えていました。家業をちゃんと引き継いでその人たちの生活を保障することが、おまえの使命だと。
若いころから文学を志していた父は深く悩みました。そして5年だけ力試しをしたい、それでだめなら文学の道はきっぱりあきらめると。
「あら、仕事をしながらでも、小説は書けると思います。それで身を立てるかどうか別だけど、私だって学生時代からこうやってお勤めをするようになってからも、短歌を詠み続けているんですよ。1日1首と決めて」
「そうですか。素敵ですね。でも、ぼくは両立などということは、多分できない。不器用なんです。でもまたお会いできたら、その短歌、ぼくにも見せていただけますか」
「ええ、もちろん」

そうして父と母の交際は始まったのです。それから1年。父は毎週原稿を送り続けましたが、結局は筆を折り祖父との約束通り家業を継ぎました。同時に母との結婚も果たしました。
母の話では、結婚する前、つまり家業を継ぐ前と後で、父は人が変わったといいます。
「小説を書いているころのお父さんは、風に揺れる草花にうっとりしたり、何時間でも夜空の星を眺めていたりするような人だった。もちろん貧乏だったけど、そんなこと何も気にせず毎日の時間すべてを書くことにあてていた。しかもとても楽しそうに。それが、いったん家業に就くと仕事一筋。従業員の先頭に立って各地に出張し、それはもう休む暇なんてないくらい。でもね、お家にいるときは母さんに、どう、今日はいいのができたかって、かならず母さんが読み上げる今日の1首をじっと目を閉じて聞いてくれるような人だったの」
私が知っている父は、もちろん家業を引き継いでからの父でした。私が物心ついたころの父は、仕事でいつも家にいない。どこかに一緒に旅行したり、出かけたり、遊びにいった記憶もほとんどありません。祖父の代には20人ほどだった従業員も、父がすべてを引き継ぐころには50人を超えていました。
そんな父は口癖のように言いました。
「60歳になったらきっぱり引退して、竜平に家業のすべてを任せる。お前はそのために勉強しろ。引退後は母さんと世界1周の旅にでも出る」
と。私はといえば、家業を継ぐ継がないで父との間にいろんなことがありましたが、結局はいったん大手商社に就職した後、家業を引き継ぎました。そのころ従業員は80人になろうとしていました。1人の社員として会社に入って、父の仕事の大変さ、社員の生活を守るということの重大さを学びました。そのころ父は55歳。
「後5年で引退だ。5年1仕事。もうひとがんばりだ」
が口癖でした。
そして5年。父は私や社員の不安をよそに、
「後はみんなに任せた」
と、ほんとうに引退してしまいました。

父の引退後の両親の生活は、それはそれは穏やかな日々でした。いつも2人いっしょで旅行や観劇に出かけ、家にいるときでも共通の趣味である文学を真ん中に置いて、楽しそうに議論を交わす、それはまさに父にとっては仕事に明け暮れた30年間の罪滅ぼしのような時間でした。父自身も母のすすめもあって、もう1度筆を執ろうと意欲を燃やしていました。
しかしそんな時間は3年も続きませんでした。
還暦を目前に母が倒れたのです。脳梗塞でした。父が図書館に調べものに出かけた間のことでした。正午過ぎに父を送り出した直後に倒れ、発見されたのは父が帰った夕刻でした。一命はとりとめたものの、発見が遅れたため左右上下肢に重度の麻痺が残り、言葉を発することもできず、咀嚼、嚥下もままならず、さらに認知障害もあり、ほぼ寝たきりの状態になってしまったのです。
父は自分を激しく責めました。一緒に図書館へ連れ出していれば、出先で発症してもすぐに手を打てたのに、と。これからもっと楽をさせてあげたかったのに、と。その裏返しでしょうか、父は母にあるだけの愛をすべて注いで介護を続けました。
介護保険制度が導入される10年以上も前、「介護地獄」などという言葉がささやかれ、家族介護の負担軽減が話題にのぼるようになっていたころでした。しかし父はいっさいの介護を人に任せず、自分の手だけで全うしました。身体介護、食事の準備から排泄の世話、夜中の体位変換など、必要な介護・介助は全部父が1人でしました。私たち家族にも手出しはさせませんでした。幸いにも引退後の楽しみのためにと蓄えもあり、父はすべての時間と蓄えを母のために使おうとこころに決めていたようです。
そんな中で、父には介護の他にいくつかの日課ができました。1つは母が調子の良い日に車いすで一緒に散歩することでした。普段表情の乏しい母が、散歩に出て花や草木を目にすると笑顔が出るというのです。
「あの笑顔を見ると、初めて会った日のことを思い出す」父と母が初めて言葉を交わした日のことです。「母さんもきっと思い出しているにちがいない。そうに決まっている」
2人の散歩は、父にとって大きな救いの1つになりました。父は母の車いすを使った日も、使わなかった日も、母を寝かしつけてからピカピカに磨き上げていました。車輪のスポーク1本1本まで、丁寧に丁寧に。

食材を売り各地を歩く夫の背
朝な夕な思う吾はしあわせ
出張で長く帰ってこない父の、がんばる後ろ姿を思い浮かべて自分は幸せだと詠んでいるのです。
「母さんがいたからこそ、私は安心して出張に出かけられていたのに……」
そこまで言うと父の言葉は涙に変わりました。後に父はこう言いました。
「介護の中に、何かおたがい楽しいこと、うれしいことを見つけ出す。それを日課にして、長く続ける。そうすれば介護だって一緒にいられる時間だから『介護地獄』などという言葉はあてはまらないよ。父さんと母さんはけっこう楽しくやっているんだよ」

母は3年前に脳梗塞を再発させて他界しました。冒頭に「母は72歳」と言いましたが、それは生きていれば、いや父にとっての母の年齢なのです。 しかし、母の車いすを磨き上げるという父の日課は今も続いています。使う者もいない車いすを、毎日磨き上げる父。母が鬼籍に入ると同時に、父は認知症だと診断されました。父の中では、母と2人で川の畔に座って眺めた風景がいっぱいにひろがっているに違いありません。