普通のことをあたりまえに#19

それは、「自分がもしもその立場だったらどうだろうか」ということです。
これは、誰に介護をしてもらい、どんなサービスを使い、どんな用具を使い、どんな毎日を過ごすかということではありません。自分が大病を患い、予後を重い後遺症、障害を持ちながら、果たして前向きに生きていけるだろうかということです。
すべてがそうだとは言いません。個別に様々な悩み、問題を抱えておられるのも事実です。それでもなお、今お付き合いさせていただいている多くのご利用者、ご家族のみなさんが、前向きに明るく生きていらっしゃるように見えるのです。もし自分が、あるいは自分の家族がそんな状況におかれたら……。
ある先輩からは、
「もしそんな気持ちがなくなったら、この仕事は続かないよ。どれだけご利用者のこと、ご家族のことを親身になって思うことができるか、それは裏返したら自分が介護される、あるいは介護する立場でどんな毎日が過ごせるだろうって考えを巡らせることじゃないか」
と言われました。
でも私は少し違うことを考えていたのです。
自分に突きつけられた後遺症、障害を受け入れる、つまり受容することができるだろうかっていうことなのです。私には受け入れられるという自信がないのです。
〈なんで私がこんな目にあわないといけないんだ。なんで私なんだ……〉そうやって自分を否定しながら〈もう私には何もできない。だめな人間なんだ〉と悲観して、自暴自棄になって後ろ向きに生きる自分の姿しか思い浮かびませんでした。
そして、〈そんな人間がこの仕事に就いていていいのだろうか〉と。
そんな私の考えを一変させた出来事をお話ししたいと思います。
平成21年1月のある日、私を実の家族のように親しく受け止めていただいているご利用者を訪問した時のことです。その日は私の考えを一変させてくれる日になりました。

馬込陽一さん(83歳/仮名)は、脳梗塞、腹部大動脈瘤、腸閉塞などの大病を患い、要介護5と、奥様とお嫁さんにすべての介助をうけて在宅で療養生活を送っておられました。しかも嚥下障害があるために胃ろうを造設されておられました。フェイスシートの身体状況の欄には「できない」という評価がずらっと並んでいました。
ご本人に初めて会ったのは、平成20年の11月下旬、退院前の病室でした。そう、ご本人、ご家族が退院を望んでおられるということで在宅介護支援チームの担当者会議がもたれ、福祉用具の専門相談員として私も参加したのです。
〈この状態で在宅生活か……〉
正直言ってそう思いました。
奥様をはじめとするご家族も、医療管理や介護の負担に懸念は残しつつも、できるだけ在宅で生活させてあげたいという気持ちを最優先して、在宅での介護を決められました。
陽一さんも強くそれを望んでおられました。
「病院にいたら寝たきりになるだけだ」
消え入りそうな声でしたが、ご本人の口からその言葉を聞いたとき、なんとか希望をかなえられるような支援計画を練らないとだめだと気持ちを引き締めた記憶があります。
が、一方でこの状態で在宅生活が可能なのか、もしそうだとしても主介護者の奥様に大きな負担がかかって、結果的に苦労の連続になるのではないかと、思っていたのです。
私の頭の中には〈要介護5=何もできない人〉という構図が出来上がっていたのです。
在宅生活を決められた後は、具体的な支援計画、福祉用具導入計画にそって住宅の改修を行い、奥様は体位変換器や移乗用リフトの操作トレーニングを受けられ、万全の態勢で退院の日を迎えられました。 平成20年12月1日、陽一さんは2年ぶりの我が家に帰られたのです。
寒い時期だったので、風邪から肺炎を起こすようなことがあってはという医療スタッフの心配を他所に、陽一さんもご家族も、とても晴れやかな表情をされていました。
〈これからが大変だろうな〉
そんな光景を見ながら、私はそう思っていました。

在宅での療養生活が始まると、私たちに多くの要求、訴えが寄せられました。それは陽一さんからではなく、主に奥様からでした。当然のことです。用具を操作するのは主に奥様ですから、安全に使っていただくためには操作、動作が安定するまでは、何度も訪問しないといけないだろうなとそのつもりでいたのですが、予想をはるかに上回るほど時間を割かなければなりませんでした。
〈あっ!〉
訪問を繰り返していて、私はあることに気づきました。
奥様は動けない陽一さんを動かそうとしていたのです。
「普通のことをあたりまえにできるようになるのが目標!無理だって笑われたっていいの。ほんとうにそう思っているのよ。だからいやでもからだを動かすの。ねっ、お父さん!」
奥様は笑って言いました。そのとき陽一さんは引きつったような笑顔を見せました。
〈こいつがいちばん厳しいヘルパーなんだよ〉
そんなふうにぼやくかのように。
奥様はリフトを操作し、ベッドから車いすに移乗させながら、こう続けました。
「ただの寝たきり老人になってほしくないの。寝たきりになると、ほんとに何もできなくなるでしょ。だから無理にでもからだを動かすの。それが機能回復にもなるでしょ」
奥様はご存知でした。動かなくなると、動けなくなる。そうなると、生きることへの意欲もなくなる。廃用症候群です。
「目標があるのよ、次に選挙があるときは必ず投票に行くって」
陽一さんは座位姿勢を保つことが困難でしたし、左上下肢に拘縮もあったので座っていられるのはせいぜい20分か30分です。角度調節の可能なリクライニング式の車いすを使ったとしても、それがぎりぎり限界だと考えられました。
「主人も言うのよ、からだが動かないだけで気持ちが萎えることはないって。だから頑張れるのよ」
奥さんの言葉を聞きながら、私もなんとかその夢をかなえさせてあげたいと思いましたがでも難しいだろうなとも思っていました。
そして年を越し、その日を迎えました。

車いすの調節をしてほしいと連絡があったので訪問したのですが、「どんなお正月だったの」と奥様にたずねられ世間話になりました。
「私はべつになんていうことのない普通のお正月でした。初詣にはいきましたが。まあ寝正月みたいなもんです」
本当に〈普通〉だなと自分でも思いました。
「私たちも普通。初詣に行ったくらい」
奥様が笑って言われました。そしてあわてて続けられました。
「ああ、主人も一緒にね」
と。

私は一瞬自分の耳を疑いました。お参りされた神社の名前を聞くと、往復で2時間はかかる道のりでした。座っていられるのがせいぜい20分か30分のご主人が……。
「大丈夫でしたか?」
驚いてたずねる私に奥様は笑って答えられました。
「お尻がちょっと痛いって言ってたけどね。ねぇ、主人の顔見て何か気づかない?」
「そういえば、表情がずいぶん明るくなられたような……」
「でしょ。病院にいたころはずっとムスっとしてたのにね。ずいぶん笑いも出るようになったし、からだを動かすこともいやがらなくなったわ。動かないじゃなくて、動かさなかったのよ。動かしてみると、あれ、けっこうできるかなって。そうなると意欲もわいてくるのよ」
陽一さんは〈何もできない〉って自分で決めつけておられたのだろうなと思いました。それが暗い表情に現れていた。でも、いろんな支えがあってあきらめかけていたことが、またできるようになった。それが明るい表情のもとになっている。奥様はそう言われました。そして最後にこう言われたのです。
「あなた方の支えがあったから、ここまでこれたの。ありがとうね。これからもよろしくね」
事務所に帰った私は、すぐに担当のケアマネージャーさんや、訪問看護師さん、作業療法士さん、理学療法士さんに連絡を入れました。
「初詣に行かれたそうですよ」
その事実に誰もが一様に驚きました。そして誰もがこう言いました。
「よかったですね」
目の前がさっと明るくなる思いがしました。
後遺症、障害を得ることは、なにも〈何もできないだめな人間〉になることではない。失うものはあっても、できることはたくさんある。その手伝いを福祉用具がしてくれる。そう思うと、もし自分が重い後遺症、障害を得ることになっても、何も悲観することはないのだと思えるようになりました。強い味方がたくさんいるのだと。

陽一さんは、あの劇的な政権交代につながった総選挙の投票に行かれたそうです。
「よかったですね」
と私が言うと、奥様が大きな声を上げて笑われました。
「国民の義務と権利でしょ。普通のことをあたりまえにしただけよ」
奥様の横では、陽一さんが穏やかな笑顔で車いすに乗っておられました。