自分に何ができるか#21

志布志市で2人暮らしをする父(79歳)と母(76 歳)はともに介護、支援を要します。私と両親の話を聞いてください。
父は、銀行員として63 歳まで勤め上げた人で、実直、厳格、誠実を絵に描いたような人でした。息子の私から見ると、自尊心が高く、少々厳格すぎて、口数が少なく、あまり社交的でない性格からか、人付き合いの少ないことが心配でした。逆に母は社交的で近所付き合いも多く、そんな2 人だから夫婦としてうまくやっていけるのかな、などと思っていました。
2人兄弟の兄と私は早くから鹿児島市内で働き、両親も元気だったことから帰省することも少なく、「元気でやっているだろうか」という程度にしか心配していませんでした。それほど兄や私の中で父の存在は大きく、母の存在は頼れるものだったのです。父や母が年老いてゆく、その事実が具体的に想像できなかったし、想像しようとも思いませんでした。

先に問題を抱えたのは母でした。
母は身体的な問題よりも先に、精神的に病んだのです。病名は「双極性障害」。躁状態とうつ状態を繰り返す精神疾患です。私たちが気づくのも遅く、本人は躁とうつの狭間でずいぶん苦しんだろうと思い、なぜもう少し早く気づけなかったのかと悔やまれて仕方ありません。
父の場合もそうでした。兄家族と一緒に帰省した時のことです。父が、立てない、言葉がうまくしゃべれない、というのです。
兄と私はあわてて父を自家用車に乗せ、鹿児島市内の病院まで連れていきました。
診断の結果は脳梗塞でした。
「どうして、こんなになるまで放っておいた!しかもなぜ救急車を呼ばなかった!」
〈発見がもう少し早ければ……〉
母の時と同じことを繰り返したのです。
結果的に父は右半身上下肢に麻痺が残り、要介護2と認定されました。
父にとって、自尊心の高さが自身の後遺症、障害を受容する大きな妨げになりました。入院中から家に帰りたいと訴え続け、退院して自宅に帰ると、今度は右半身が使えないと悲観する。

当時私は商社に勤めており、父や母の介護に関しては、積極的にいろいろ考えるというよりも、制度の範囲の中でケアマネージャーさんやヘルパーさんの力に頼るほかありませんでした。勤めを辞して志布志に帰ろうにも、子どもの学校の問題や、志布志での就職難などを考えると、どうしても鹿児島市内から移動することはできない。それも事実でした。
しかし、縁あってこの仕事に就いてみると、普通にある事情でした。
ケアマネージャーさんやヘルパーさんの力に頼り、両親をいわゆる老々介護の状態においている。そうせざるを得ない人々、ご利用者がなんと多いことか。
たった1つだけ、生来出かけるのが苦手だった父に、電動カーを利用して外に出て、散歩を通して地域の人と交流を深めたり、生き甲斐を見つけたりしてほしいと思っていました。そして平穏に余生を過ごしてもらいたい、と。
ケアマネージャーさんのすすめもあって、介護保険を利用して、電動ベッドと外出用に電動カーをレンタルしました。しかしもっぱら自宅での起居動作には母の介助が必要でしたが、母自身も問題を抱えており、調子の悪いときには何もできない、そんな状態でした。父の自尊心の高さも事態をいい方には導きませんでした。何度目かの介護認定で父は要介護2 から要介護1 となりました。
私には父の気持ちが痛いほどわかりました。だれでもそうだと思います。
「できますか?」
と聞かれて、
「できません」
と進んで答えることができるでしょうか。
自分で自分のことを「何もできない人」と決めつけることになるのです。自尊心の高い父にとって少しでもできるなら、「できる」を意味するし、そう答えたかったに違いありません。
その結果、電動ベッドと電動カーのレンタルは認められなくなりました。それらがなくなってもすぐに生活できなくなるわけではありませんが、生活の質自体は落とさざるを得ない。そのことは目に見えていました。とりわけその時の私には電動カーが借りられなくなった理由がショックでした。
「通院が目的なら認められるが、散歩が目的なら認められない」
最後の生き甲斐にしてほしかった外出の可能性も認めてもらえなかったのです。ちょうどその時、電動ベッドと電動カーを提供してくれていたのが、今私が勤務するカクイックスウィングでした。営業担当者に相談すると、福祉用具がある事でQOLの向上と自立促進になるのであれば会社に相談してみましょう!と掛けあってくれました。それで電動ベッドと電動カーを中古で購入することができました。しかし私たちが期待したほど、父は外出しようとしませんでした。障害を持った自分の姿を知り合いに見られたくない。いかにも父らしい理由でした。

しばらくして母に激しいうつ状態が続き、入院してしまいます。老々介護という危ういバランスの上に成り立っていた夫婦の暮らしです。父は1人で暮らすことができず、緊急避難的に、いわゆるレスパイト入院ですが、病院の介護病棟に入ることに。もちろん父が早く家に帰りたがったことは言うまでもありません。
退院した母は介護認定を受け要支援と認定されます。これは精神疾病のためではなく加齢による下肢筋力の低下が要因でした。結果として家事援助のヘルパーさんが訪問してくれることになりました。
父は加齢による麻痺の進行、重度化もなく、それなりに状態の維持を続けています。デイサービスを利用して、外出してみたらとすすめてみましたが、「自分より年寄りばっかじゃなかか」
と首を縦に振りません。
頑固な父の日常は、やはり母の手に委ねるほかないのです。
母の家事支援のために来てくれているヘルパーさんが、母と一緒に父の見守りもしてくれていろいろ助言をしていただいたり、ケアマネージャーさんに連絡してくれたりするので、母の精神的負担もいくらかは軽くなっているようです。

私はといえば、縁あってカクイックスウィングに勤務することになりました。今、両親と同じような境遇にあるご利用者に接すると、やはり両親の姿と重なります。両親を世話できない分、担当するご利用者には自分の両親を見るような気持ちで接しようというのはもちろんですが、私が提案する福祉用具が、離れて暮らさざるを得ないご家族の代わりに手厚い介護の力になるように、そしてご夫婦どちらかのための福祉用具であっても、ご夫婦一体としての支援ができるように、そんなことを心がけています。
何度か両親に鹿児島市内で一緒に暮らさないかと言ったことがあります。
「志布志で生きてきた歴史がある」
その度に父は、うれしそうにしながらも、そう拒否しました。母は何も口出ししませんが、父と同じように思っていたことでしょう。
考えてみれば、銀行員として転勤転勤に明け暮れていた父です。生まれ育った志布志にいつかは家を建ててと思い続け、ようやく実現した。
病気の後遺症と向き合いながらも、ずっとそこで、ずっと夫婦で暮らしていく、そんな覚悟が「生きてきた歴史」という言葉の向こうに隠れているような気がします。
私が担当するご利用者にも、そんな覚悟を秘めた方は大勢おられるはずです。そんな思いをしっかりと受け止めて、自分に何ができるか考えながら、これからもこの仕事と向き合っていこうとこころに決めています。