若い日の妻に会うために#25

私がそう言って動く方の右手をふると、長男の嫁は少々不安気に、いってらっしゃいと答えました。
私は66歳。5年前に起こした脳梗塞の後遺症で、左上下半身に麻痺があります。自分の足で立つことも、歩くこともできません。はじめはほぼ寝たきりになるのではと言われていましたが、妻の献身的な介護とリハビリのおかげで、2年目を過ぎるころから車いすの上で1日をすごせるまでに回復しました。

今日までをふりかえると、ずいぶんわがままな人生でした。
「仕事」を言い訳に、妻にもずいぶん迷惑をかけました。
「定年退職後はのんびり日本各地を旅行しよう」
などと話していましたが、実行することもなく病に倒れてしまいました。しかし妻は、愚痴ひとつこぼさず私の手足となり、昼夜分かたず看病し、介護してくれたのでした。
「車いすでもいいから、元気になって旅行しましょうね」
私がリハビリや通院で愚痴をこぼしたり、自由にならない我が身にヤケを起こしたりすると、そう言ってそっと励ましてくれました。妻の存在、笑顔にどんなに勇気づけられたかわかりません。どうしようもない病に冒されたけど、この人がいる分、私は幸せなのかもしれないと思えるようになりました。
ところが昨年、なんの前ぶれもなく妻は他界してしまいました。心筋梗塞でした。倒れたまま、一言の言葉も遺さず逝ってしまいました。せめて、「苦しい」「つらい」の一言でも言ってくれれば、気休めにしかならないけれど「頑張って。一緒に頑張ろう」と言ってあげられたのに。
私への介護の負担が妻のいのちをちぢめたのだと、私は自分を責めました。その日以来私のからだの中には悲しみだけが充満していました。
私は、妻と長年暮らした鹿児島市内の自宅近くの介護施設への入所を希望しました。妻との思い出がそこかしこにある土地を離れたくなかったのです。しかし息子夫婦が熱心に「一緒に住もう」と言ってくれました。息子は宮崎県日南市のある私立高校の教員として勤めていました。亡き妻のことを思うとなかなか決断できませんでしたが、
「お父さんを独りにしておけません」
という嫁の一言で息子夫婦の言葉に従うことにしたのです。
自宅を離れる日、妻の位牌を右腕にしっかり抱いて息子の車に乗ったのですが、車が動き出した瞬間、なんだか妻を置き去りにするようで、こころの中で何度も詫びました。

日南市に移り住んでからの1年。私は抜け殻のような日々を過ごしていました。妻が残してくれた膨大な写真を整理した懐かしいアルバムを開き、在りし日の妻の思い出に浸るだけの毎日でした。息子たちからはデイサービスに通ったり、リハビリに通うように進められましたが、どうしても前向きにはなれなかったのです。そのことで息子たちに心配や迷惑をかけていることは重々承知していましたが、だめだったのです。
しかし、そんな私をふたたび前向きにしてくれたのは妻でした。
アルバムに収められた写真は、ほとんどが家族の日常をとらえたものでした。留守がちだった私に代わり、妻が子どもたちの成長を記録したり、暮らしの節目節目を記録するように撮りためたものでした。その中に若い日の私たち夫婦の写真がありました。35年前、夫婦として出かけた最初で最後の旅行、新婚旅行のスナップでした。といっても宮崎日南海岸を1泊2日で通り過ぎるように走った小旅行でした。私の記憶では、私が妻をカメラに収めてばかりいたと思っていましたが、見知らぬ誰かにシャッターを切ってもらったのでしょう、2人並んで写っているものが数枚ありました。妻は実にうれしそうに、私は照れくさそうに。妻は2人並んだものだけをアルバムに収めていたのです。
その中の1枚に目が止まりました。並んで笑う2人。風が強かったのか妻は乱れる髪を右手で押さえ、左腕を私の右腕に絡めています。背後には青空の下に水平線が。鵜戸神宮です。
「日向灘!」妻は風に負けないように叫びました。
「水平線のあたりは太平洋!」私はそう叫び返しました。
小旅行から帰ってから、妻は何かの拍子に思い出したように、もう1度水平線が見たいと言っていましたが、結局それは果たせませんでした。
「そうだ、鵜戸神宮に行こう!」
私は突然思いました。そこで妻が待ってくれているような、そんな気がしたのです。息子にそのことを告げると、じゃあ次の休日を利用して家族みんなで出かけようと言ってくれました。でも、それではだめだと思いました。
「私1人ででかけるよ」
「1人でって、無理だろう……。ここから20キロ近くあるのに……」
「電動車いすで、福祉タクシーに乗れば大丈夫だよ」
「でも何かあったらどうするんだよ」
息子は反対しました。しかし嫁は違いました。
「お義母さんと2人でってことですよね。思い出の場所だってお義母さんからも聞いたことあります。福祉タクシーも運転手さんはヘルパーの資格を持ってるっていうし。大丈夫ですよ。ねっ、お義父さん」
嫁の後押しで、息子も渋々承知してくれましたが、一旦承知するとタクシーの手配をしたり、事前に鵜戸神宮の様子を神社に問い合わせて調べたりしてくれました。車いすでは本殿のずいぶん手前までしか行けないことがわかりましたが、それでもかまわないと思いました。

当日、35年前のあの日と同じ真っ青な空がひろがりました。
息子は、迎えにきてくれたタクシーの運転手さんに、くれぐれもよろしくと何度も頼み、さらにカメラを手渡し「撮ってやってください」と頼んでくれました。
車いすに乗ったままスロープで、ワンボックス型の福祉タクシーの後部に乗り込む寸前、「じゃあ行ってくるね」と息子たちに右手をふると、長男の嫁は少々不安気に、いってらっしゃいと答えてくれました。
タクシーが動き出しました。
この旅から帰ったら、少しは前向きになれるかな。そんなことを思った時です。
「なれるわよきっと」
若い日の妻の声が聞こえました。
