見守り、支える存在に#28

その間に症状は確実に進行しました。昔の記憶、若い頃の思い出は割としっかりしているのですが、さっき何があったか、昨日何をしたかということがわからなくなります。突然思い立って行動を起こす、しかし自分が何をしようとしたのかわからなくなる。その結果あてもなく動き、歩き回るということもしばしばあります。
先だっては、妻はそんなことをしなくていいと言ったのですが、自分で回覧板を隣の家にまわすといって聞かず、目を離した隙に外に出ました。しかし、回覧板は玄関においたまま、靴もスリッパも履かず裸足のままで通りの真ん中に立ち尽くしていました。
「どうしたの? そんなところで裸足のまんまで」
「……」
「ね、お家に入ろうね」
義母はしばらく立ち尽くしていましたが、優しく促され家に入りました。が、しばらくこわばって居間に座り込んだまま動けなくなりました。
「どうしたの?」
妻は決して叱ろうとせず、優しくなだめるように自分の母親に接します。
でも最初からそうではありませんでした。
「あれだけたくましい母だったのに……。病気だと思っても、受け容れられないわ」
当初妻は何度となく義母の行動を
「それが母のため」
そう信じて疑わなかったのです。そうすることで母親の病を受け容れようとしたのだと思います。
しかし義母はそんな思いにわざとぶつかるように、咎められるような行動をとり続けます。私たち夫婦の間、親戚の間では、これ以上在宅での介護は無理だという判断に傾き、施設への入所が話し合われるようになりました。

そんなある日、突然義母の姿が見えなくなりました。近所を探しても見当たらない、知り合いの家をたずねた痕跡もない。ずいぶんとあちこち探しまわりましたがどこにもいない。仕方なく警察に保護願いを出しました。
すると数時間後、ずいぶん遠方の交番から義母を保護していると連絡が入り、私たちはあわてて迎えに行きました。義母はその近くのスーパーで万引きをしたとして、交番に通報されたのでした。スーパーには義母の病のことを説明しお詫びをして、なんとか許していただきました。警察からも、そんな病気なら目を離さないようにと厳しく注意を受けました。
家に戻り妻が義母を叱りつけたことはいうまでもありません。すると義母がつぶやくようにいったのです。
「私、バカになっちゃったの?」
「お母さん、なにもそんなこといってないわ。危ないから。人に迷惑もかけるし、1人では出かけないでねって」
「それって私がバカになっちゃったってことでしょう」
「違うの、お母さんは病気なの」
「でも……」
「……、だれもお母さんのことをバカだなんて思ってないわ。お母さんをバカだっていう人がいたら私がただではおかないから」
それまで大きかった妻の声は、細く長く息を吐くような泣き声に変わりました。

その夜義母が眠った後、妻と私は話し合いました。義母にあんな思いをさせたのは、私たちの義母の行動を制限したり、咎めたり、叱ったり、そんなことが原因なんだろうなあと。義母のためだといいながら、実は自分たちの平穏のためだったのだ、と。反省すべきことばかりでした。
「病気の家族を抱えた私たちは不幸だ」
そんなふうに、義母のことよりも、まず自分たちのことが先にあったのかもしれません。
夜を徹して話し合い、私たちはひとつの結論を出しました。
「どのような施設にも母は入所させない。どんなことがあっても家族一緒に暮らす」
という結論です。
それまで入所を前提にいろんな施設を見学しました。何カ所も見てまわった理由を思い返してみると、その度に「できれば入所させたくない」という思いが強くなったからです。そこには家族という存在、家庭という温もりが感じられなかったからです。これは施設の側の問題ではなく、家族、家庭を離れて入所するわけですから仕方のないことなのですが、逆にこの病気には家族の存在、家庭の温もりこそが大切だと思いはじめていたからです。
その思いがこの出来事でいっそう強くなったのです。
もし義母が施設を抜け出し今回のような出来事を起こしたら……。
やはり一緒に苦労すべきは家族だと。そのかわりデイサービスやショートステイをうまく利用しようと話し合いました。

そんな時でした。住宅改修の仕事で「みんなのいえ」という高齢者グループホームを訪ねることになったのです。そこは介護保険法に基づく認知症対応型共同生活介護事業として設置され、要介護1以上で認知症の症状がある利用者の方が入居されているということでした。家屋は築100年になるのではないかと推定される元の村長さんの住まいだったものを、提供していただき補修・改修したものだと聞きました。たしかに通りに面した門構えは立派で堂々としていました。
〈高齢者グループホーム みんなのいえ〉
門扉の大きな看板に迎え入れられた、その広々とした前庭がとても気持ちよかったことをよく覚えています。
車から下りて目の前にあったのは、まさに古民家でした。しかし私は、その古民家がめざす「みんなのいえ」ではないと決めつけてしまいました。
まず建物には看板がかけられていなかった。それに玄関が開け放たれていた。業務上いろんな施設を訪問する私にとって、認知症のご利用者が入居するグループホームとは、ほぼ例外なく玄関が閉じられたものでした。なのにそこは敷地への門も、建物の玄関も開放されているのです。だから瞬時には理解しがたかったのです。
玄関を入りました。古民家特有の高い床との段差解消のために、どっしりとした3段の階段と手すりが据え付けられていました。それを見てはじめてそこが施設であることを認識しました。上がってすぐの部屋は応接室のようになっていました。壁には1枚張り紙が。
~理念~
住み慣れた 地域の中で
いつまでも
自分らしく 安心して
暮らせるように 支援します。
一緒に 語って 笑って
食(た)もって 良(よ)か人生
私はしばらくそのことばに見入っていると背後から声がかかりました。仕事で来たことをすっかり忘れて義母のことばかりを考えていた私は、その声で我にかえりました。

私はこころが射抜かれたように感じました。義母は自宅で暮らしているが、普通に暮らしているだろうか、と。
「大切なことは、制限したり、コントロールしたりすることではありません。共に生活しながら、見守り、支えることです」
見守ること、支えること。私はこころの中で
「みんなのいえ」では9人のご利用者がそれぞれの居室で暮らしています。食事の支度や掃除、洗濯、買い物などの身の回りの家事を一緒にしますが、個人の生活はちゃんと守られているのです。外出や買い物、様々な行事を通じて地域のみなさんや自然とも、普通に接しています。
軒先に干し柿が吊るされていました。
「入所者のみなさんがつくられました。お年寄りは地域の知恵袋とはよくいったものです。いろんな手仕事をみなさん熱心にされますが、時々は夜なべ仕事になることもあるのですよ」
いろんな行事の写真を見せていただきました。入所者のみなさんは、ご家族や地域のみなさん、ボランティアのみなさん、職員のみなさんに囲まれて満面の笑顔です。
私は門や玄関が開け放たれていることについて、義母のことを引き合いにたずねました。入所者の方が勝手に出かけて行方不明にならないか、と。
「大丈夫ですよ。もしそんなことがあってもみなさん地域の方々とも顔見知りだし。こちらのスタッフだけでなく、地域ぐるみで見守りをしてる。みなさん、そこまでとけ込んでいます。こちらを見てください」
そういいながら施設長さんは、前庭に面した縁側のサッシを指差しました。鍵はかけられていませんでした。自由に出入りができるのです。サッシを開けると縁側の向こうは盛り土がされて、縁側と前庭が緩やかなスロープでつながっていました。
「一般的には自由に出入りすることを制限するのと、転落事故を防ぐのと、どちらを優先するかといえば、転落事故を防ぐほうでしょう。まあ、私たちは逆に自由に出入りすることを優先していると考えてもらってもいいですよ。だってみなさん大人なんですから」
施設長さんはそういって笑いました。
話を聞きながら、私は自分の気持ちが少しずつ軽くなっていくのを感じていました。「みんなのいえ」のありのままを見せてもらって、「見守る」というのは、制限したり、コントロールしたりという意味ではないとわかってきたからです。「共に生活しながら、見守り、支える」そのことで、義母にも普通の暮らしを続けることができるかもしれない。近所の人にも義母の病気の事実を話し、理解してもらえるようにしようと。そして在宅でもちゃんと暮らせることを証明しようと。

ところで「みんなのいえ」の住宅改修ですが、8メートルほどの廊下があり、そこに手すりを付けたいということでした。その廊下は裏庭の物干し場に面した廊下でした。自立移動、歩行訓練のためにもしっかりした手すりがほしいということでした。
私は既製品を進めたのですが、築100年という
なるほど……。柱や
結局既製品ではなく、少々コストは高くなりましたが大工さんに依頼して作り付けの手すりを設置することにしました。どうしたら強度を保てるか、どうしたら握りやすいか、どうしたら建物の雰囲気にとけ込めるか。なかなか難しい作業でした。

その手すりは何千回、何万回と触れられることにより、築100年という建物の1部にふさわしい風合いとなっているのです。立派に見守り、支える存在になっていると、私は少々誇らしい気持ちになるのです。