加治屋町日記(2)福祉道具は優しさの結晶#30

「もうよかかね!」
振り返ると今回のお話の主人公、ご主人の和田守安さん(仮名/84歳)と奥様の富江さん(仮名/78歳)が立っておられました。
「お父さん、まだ開店前ですよ……」
「よかっち。年寄りが2人して立っとるんじゃ。少々早うても入れてくれるわ。なっ」
もちろん開店直前とはいえ、準備も万端整っていましたので、お言葉がなくても入店していただくつもりでした。しかも奥様は杖をつかれて、足が悪そうなご様子だったので……。
どうぞ、とご案内すると、ご主人は
「お前が先に行きなさい」
と、奥様に先に行くよう促されました。
奥様は右手で杖をつき、左手で手すりを握り短い階段を1歩ずつゆっくり上りはじめられました。ご主人はまるで奥様をかばうかのように、後ろにぴったりついておられました。ほんの短い緩やかな階段なのですが、奥様はとても歩き辛いご様子でした。
「もっとちゃんと歩かんか!」
私の目を気にしてか、ご主人は奥様の耳元で、小さくしかしきつい口調でそうおっしゃいました。奥様は無言でうなずかれましたが、やはり思うように足がでません。
「早よ歩かんか!」ご主人はもう一度責めるような口調で言われました。そしてこう続けられたのです。「待ってもらってるお姉さんにも迷惑じゃっち」
「いえ、そんなことありませんよ。どうぞゆっくりお上がりください」
私がとっさにそういうと、ご主人が一瞬私をにらみつけたような気がしました。

ご来店の目的をおたずねすると、足が少々弱くなった奥様のために歩行器を選んでほしいということでした。
奥様は10年前に脳梗塞で倒れられましたが、幸い病状も軽く、後遺症はほとんど見られませんでした。それでも加齢とともに足腰が弱くなって、数年前から移動には杖が欠かせなくなり、最近では杖だけだと誰かの介助なしには安心して移動できなくなられたそうです。家の中には手すりが付けられ、家事はなんとかこなされているということでしたが、ご主人のお話しではヘルパーさんには家事援助で週2回1時間の訪問をお願いされているということでした。
「それも人の世話になっているようで気がすすまんが……。おいがまだこんな元気やのに、こいつばっかり弱ってしもうて……、仕方ないのう」
ご主人はやれやれという表情で奥様を見られました。奥さんは申し訳なさそうに足下に視線を落とされました。
ご主人は奥様のことより、まわりの人の目を気にされている。私にはそんなふうに思えました。
いろいろお話をさせていただきました。
奥様は、1人で近くの商店まで買い物に行ったり、散歩したり、ご主人の手を煩わせることなく、自由に、安全に移動したい。できるなら操作は簡単な方がいいということを希望されました。
そこで次にあてはまる商品を何台か選んでお薦めし、奥様に選んでいただきました。
ハンドル(グリップ)は体重を預けることができ、体に合わせて調節できるもの。体重移動の変化などにちゃんと対応できるもの。
ブレーキは、もちろん手元ブレーキで、とっさのときにどこを握ってもブレーキがかけられるよう、ハンドル部分に沿ってブレーキが装備されているもの。
近くに住む息子さんと車で出かけられることも頻繁だということなので、コンパクトに折りたためるもの。
そしてお買い物をされるということなのでカゴ付きのものを。
ご主人はすぐにでも決めて、早く持って帰りたいとおっしゃいましたが、ちゃんと安全にお使いいただくためには、1台ずつ実際に試していただいた方が失敗が少ないですよとご説明しました。これはご主人も承知していただき、早速試していただくことに。しかし……。
「もっと素早く足を出さんか!」
「ほれ、ブレーキ!」
「そんなことじゃあ転ぶぞ! ちゃんと体重を移動して!」
「もっとうまく歩かんか!」
ご主人は奥様のからだの動きすべてに口を出されました。奥様はそれに応えようとされるのですが、ご主人から厳しく言われれば言われるほどからだの動きが悪くなってゆくのです。それでもご主人は口出しをやめようとはなさいませんし、奥様は無理をしてもそれに従おうとされるのです。

「ご主人、申し訳ありませんが、たったいまお使いになられたばかりです。でも奥様はうまくお使いになっていると思いますし、慣れていただけばもっとスムーズにお使いいただけると思いますよ。そんなに急かしてもすぐにはうまく使えないですよ」
どうもご主人は人目を気にしておられる、私の目を気にしておられる。大切なのは、お使いいただくご本人に、これならうまく使える、安心して使えると納得していただくことなのに……。私は、ご来店いただいた時からのお2人の様子を見ていて、そんなふうに感じたのでした。差し出がましいことは承知で、奥様のためにとご主人に申し上げたのでした。でもそれが私の思い込みでしかなかったと、すぐに思い知らされました。
「すみませんでした」そうおっしゃったのは奥様でした。「この人、こういう言い方しかできないのです。勘弁してやってくださいねえ。でもほんとうは優しい人なんですよ。とくに私のことはほんとうによく心配してくれているんですよ」
奥さんは微笑みながらおっしゃったのです。ご主人を見る目はとても穏やかでした。
「余計なこといわんでよかっ!」
ご主人はそう怒鳴られました。しかしどことなく照れを含んだ優しい響きが感じられました。その瞬間、何も知らない私はすごく失礼なことをいったのだと思いましたが、どうすることもできませんでした。
「申し訳ございません」
「よかっ。それより練習、練習」
深く頭を下げる私にご主人がおっしゃいました。そのお顔をまともに見ることはできませんでしたが、笑っておられるのは声の響きでわかりました。
「さっきはごめんなさいねえ」
機種を決めていただき、一段落したとき奥様が私にそっとおっしゃいました。ご主人はほかにも面白そうな道具があると、ショールームをご覧になっていました。
「いかにも頑固じいさんでしょ。でも、あんな言い方しかできないの。悪い人ではないのですよ」
奥様は楽しそうに笑われました。
「いえ、悪い人だなんて。余計なことを申し上げてしまいまして……」
「いいえ、なんにも気にしていませんよ。それだけ私のことを心配してくださっているということがちゃんとわかりました。とてもありがたいひと言でしたよ」
「そういっていただけると……。でも申し訳ありませんでした」
「ほら、これ」奥様は右手に握りしめた杖を私に差し出されました。「これは主人のお手製なんですよ。足が弱くなってね、杖がいるなあと思ったとき、私はずいぶんためらったの。いかにも年をとったって感じでしょ。恥ずかしいなあと思って。主人も杖をついた私と並んで歩きたくはないだろうなあって。そしたら主人が格好よりもちゃんと移動することだっていって、私にあいそうな杖を何本も買ってきてくれたの」
奥様はとてもうれしそうに杖を見つめお話を続けられました。
ご主人は私たちから少し離れ、電動カーに乗ったり、自分でも歩行器を試してみたりされていました。奥様は杖から目を離すと、そんなご主人の様子を優しい目でながめられていました。
「でも、結局はどの杖もわたしには使いづらかったの。そうしたら主人が、俺がつくってやるって。竹を試したり、木を削ったり、とても苦労して私にあう杖をつくってくれたのですよ。それがこれなのです」
奥様は握った杖を誇らしげに見つめられました。
「こんな杖を持てる私は幸せ」
奥様の言葉が私の胸に染み込みました。奥様にとって、その杖はご主人の奥様への思い、優しさの結晶なのです。
その杖の形、輝き、汚れ、そのすべてを私はいまも覚えています。心がこもってこそ道具。そんなことをそのご夫婦に教えていただきました。
ショールームを後にされる時、階段を下りる奥様に「気をつけて下りるんやっど」とご主人の声が飛びましたが、私には少しも気になりませんでした。お見送りした奥様の後ろ姿に、その笑顔が思い浮かんだからです。