「桜の時期」に揺らぐ心#31

田上修史さん(仮名/76歳)は、そう振り返りました。
修史さんは数年前に脳梗塞で倒れましたが、幸い左半身に後遺症が残ったものの、移動も着替えも、日常的には人の手を借りずに暮らすことが可能でした。しかしそれは、家の中での暮らしに限ったことであり、外出するには車椅子が欠かせませんでした。娘さん夫婦の献身的な介護もあり、修史さんはほぼ不満のない毎日を過ごしていました。
でもひとつだけ、修史さんを悩ませていたことがありました。
「遠慮」
何かしようとするたびに、何か頼もうとするたびに、このひと言につまずいたのです。
八年前に奥さんに先立たれ、しばらくは頴娃町(現南九州市)で独り暮らしをしていましたが自身も倒れ、介護付きの高齢者施設に入ろうとしたのですが、一緒に暮らそうと熱心に説得してくれた娘さん夫婦に押し切られる形で、鹿児島市の郊外で同居をはじめました。
でも修史さんは、すべてを世話になるのは心苦しいと、できることは、いや、少々無理なことでも自分でしようと心がけていました。天気のいい日には孫たちも一緒に車椅子を押して散歩にも行けるし、たまには街に出て買い物や食事も楽しめる……。でも、遠慮はあったのです。介護を受ける身だから、決して自分の行きたいところ、したいことを口にせず、娘さん夫婦家族の意志にすべてを委ねる。そう心に決めていたのです。その決心が「桜の時期」に揺らぐのです。

私がそのことに気づいたのは、2010年2月も終わりのこと。車椅子のメンテナンスに訪れた時の何気ない会話からでした。いつものように作業を見守っていた修史さんが、ぽつっと言いました。
「どうしても、家族で見たい桜があるんだ。喜入の渕田坂の山桜はもう咲いただろうか……」
「そんなに早く咲くんですか、山桜って」私がたずねると、修史さんは楽しそうに話しはじめました。渕田坂の山桜は県内屈指の早咲きで有名なこと。樹齢は90年以上になること。そして亡くなった奥さんとよく見に行ったこと。
「渕田坂の山桜はもう咲いただろうか……」
修史さんはつぶやくように、もう1度言いました。
「見に行きたいですか?」とたずねると、「でもねえ、あそこは坂もきついし、この近くに車を止められても押してもらうのが大変だから」とあきらめの表情が浮かびました。
あの山桜の下なら私もよく通る道でした。たしかに駐車スペースはないし、手押しの車椅子では大変だと直感しました。
「その山桜、特別な思い出があるんですか?」私は話を変えてみました。
「今年12歳になる初孫がね、生まれるときのことですよ」修史さんは懐かしそうに話しはじめました。「3月の初めだった。娘が夜中に陣痛を起こしてね、あいにく婿どんは出張中で、家内と2人で娘を車に乗せて鹿児島の産院を目指したんです。後ろのシートで横になっていた娘が、ちょうど渕田坂にさしかかった時にそれまでうなっていたのに、あっ桜が満開だって。私は運転に必死、家内は娘を心配し沿道の風景なんて目に入らなかった。で、娘が言うんですよ、男の子だったら桜人(おうひと)、女の子だったら桜子(さくらこ)と名付けるって」そしてその話を満開の山桜の下で、12歳になった桜人君に聞かせてやりたい、と。

私は修史さんの心の中に渦巻く「遠慮」と「あきらめ」を感じました。
「外に出られるだけでも幸せですからね。甲突川の桜の下で話してやりますよ」。修史さんは笑ったけど、心底の笑顔ではないと思いました。
車に戻ってすぐにケアマネージャーに電話しました。アシストホイール(電動補助型車椅子)が使えたら桜の下まで行けるんだけど、単発でレンタルできませんか、と。
しかし、桜を見るためだけの単発レンタルというのはケアプランになじまない、という返事でした。
私たちは「生活の質の向上」だとか「ふつうの生活をしていこうという意欲を引き出す」などと常日頃言い続けているのに、家族の思い出の場所に出かけることすらできないなんて……。
翌日、あらためてケアマネージャーと相談しました。
「お金のかかることだけど、自費レンタルを考えてもらいましょう。修史さんの思いをご家族に知ってもらうのにもいい機会になるでしょう」
「遠慮とか、あきらめっていうことも含めてですね」
「アシストホイールっていうのは介護用具で生活を支える道具でしょ。道具を提供すると同時に、気持ちの上で、決してあきらめない、あきらめさせないっていう工夫や支援も、私たちの大切な仕事と思うの」
「決してあきらめない、あきらめさせない、か……」
そのことを電話で修史さんに告げました。電話の向こうの修史さんの笑顔がはっきり浮かびました。
渕田坂の山桜が満開になったことを確認し、アシストホイール を田上さん宅に届けました。快晴の空の下、田上さん家族は渕田坂を目指して出発しました。
桜人君にアシストホイール を押してもらいながら、修史さんは、満開の桜の下で桜人君が生まれた夜のこと、そして「桜人」という名前の由来を、笑顔で語ったことでしょう。山桜の空からは、亡くなった奥さんも笑顔で家族の様子を眺めていたかもしれません。

■ アシストホイール
■ モーター
■ グリップセンサー