この「不便」は「強み」でもある#34

ひと言でいえば重度の障がい者です。
「だけど、障害をもつことは不便だけれど不幸じゃない」
私がよく口にする言葉です。中には本心からそう思っているのかと疑問に思う方もおられるでしょう。たしかに障害をもった自分を受け容れるのは、障害をもった人にしかわからないもどかしさ、悔しさ、悲しさ、そして苦労があります。私だって受傷して23年。それまでは元気で飛び回っていたのですから……。

バイクでの交通事故でした。交差点を直進する私。右折してきた車。一瞬の出来事でした。生死の境をさまよいました。頭蓋骨骨折、脳挫傷、外傷性くも膜下出血、多発性肋骨骨折とそのことによる肺損傷、脊椎損傷。ひとえに医療技術とレスピレーターなどの医療機器の進歩で命を取りとめることができたといっても大げさではありません。だから後遺症が残る、障害をもつなどという前に、生きていたのが不思議というのが実感です。
何度かの手術を経て、リハビリを続けました。次第に傷も癒え、気持ちも元気を取り戻しつつありましたが、その過程でわかったことは「元気になる」ということと「治る」ということは違うということでした。下半身に力が入らない、そう、コンセントがささっていないという感じがして、骨折や外傷が治ってもなんとなく動けなくなるのかなあと。で、結局下半身は動かなかった。でもあの事故以来23年、今もそうですが、お医者さんから「あなたの下半身は2度と動きませんよ」と告知されたことはありません。ああ、やっぱり動かないんだなあという事実があるだけです。それ以上でも以下でもない。そう考えるほかありませんでした。
それまでの私は人一倍行動的でした。高校時代はサッカー部。ボールを追いかけて走り回る毎日でした。卒業後は熊本県警に入り機動隊を皮切りにいくつかの勤務を経て、事故に遭った時は交通指導係として勤務していました。とくに機動隊の4年間は、きつい訓練にほんとうによく耐えたものだと思います。そんな話をすると、人は「だから余計に動けなくなってきつかったでしょ」とか「あのころはよかったなあと思うでしょう」っていいますが、そんなこと考えようがなかった。いまふり返ってみれば、そんな余裕もなかったのかもしれません。
そりゃあいろんな思いはあります。1つ手前の信号が赤だったら。逆に1つ早く通り過ぎていたら。相手の車の前にもう1台走っていたら……。そうしたら事故に遭わなくて、こんなからだにならなかったかもしれない。でも、逆に死んでいたかもしれない……。下半身が動かなくなっただけですんだと思えば、それでいいじゃないかとも思うのです。
「あんたの足が動くんだったら、うちらの足をやってもいいけん」
両親はベッドの横で泣きました。事故後はじめて声が出たとき、父親はぽろぽろと涙をこぼしました。
両親の気持ちはとてもありがたかった。でも私は、ケガをしてなかったら、とはどうしても考えられなかったし、そんなこと現実じゃないと思っていました。それよりも、仕事をどうしよう、働かないと生活できないなあ、これからどうやって生きていこう、そんなことを考えていました。
当時付き合っていた女性がいました。毎日のように見舞ってくれました。でもね、彼女にいったのです。
「もう来んでよか。あんたらとは違う人間なんだ」
冷たかったかもしれません。人からすれば頑なに思えるかもしれません。でもほんとうにそう思ったのです。
そんな私にとって車いすは1つの希望でした。たしかに足は動かないけど、車いすに乗れば、また以前のようにどこへでも行ける。移動に少々時間はかかるかもしれないし、行けないところもあるかもしれない。でも、そんなこと、どうってことないのです。行きたければ時間がかかっても行けばいいし、行けないところには行かなければいい。ただそれだけのこと。入院中行きたいなあと思っていたのは、パチンコと串カツ屋。で、入院中に行ったんです。串カツを食べに。ちょっと不安だけど行ってみようって。行ってみたらどうってことなくて、また来ようと思いました。そして早く退院しなくてはと。そうやって少しずつ自信も持てるようになりました。

仕事は休職扱いになっていました。期限が切れるとき、退職か免職かの選択を迫られました。今なら警察関連の職場もきちんとバリアフリーが行き届いていますが、当時はそうではありませんでした。車いすで勤務できる職場はありませんでした。
そうしていろいろあって、今の職場に勤めることになったのです。
現在勤めているアメックス熊本株式会社は補装具(福祉用具)を扱っていますが、私は補装具グループの責任者をしています。障がい者自立支援法や労災保険、各市町村の日常生活用具給付事業に応じて補装具を提供や、病院や施設などへの営業を担当しています。
「障害があるからといって能力に差があるわけではない」
これはいつも自分にいい続けていることです。受傷当時、仕事はどうしよう、これからの生活をどうしようと思った時期もありました。しかし、実際に働いてみるとどうってことない。パチンコに行ったり、串カツを食べに行ったりするのと大差ない。やってみることなのです。自分がそうありたかったら、そう動く。働きたかったら働けばいい。それだけのことです。移動に時間がかかったり、行けない場所があったり、そんなことどうでもいい。時間をかければいいし、行けなければ代わりの者を行かせればいい。
ね、「障害をもつことは不便だけれど不幸じゃない」って意味がよくわかるでしょ。自分の現実がわかっていて、能力に自信をもって働く。それ以外に何もないのです。
でも、営業って、はっきりいって、よくわからんのです。ご利用者は障害をもった方がほとんど。そんな方を相手に障害について話せるかといえば、それはあまり話せないし、あまり話したがらない。話せるとしたら、私が車いすに乗ってきたという経験。自分の車いすをつくってきたという経験でしょうか。あとは雑談の中に大切なことが隠されていると思います。だから向き合って話を聞き、話し続けること。
障害をもった人とはしゃべりにくい、とりつきにくいという人が多いと思います。たしかに普通の会話は成り立ちにくい。でも、聞き続けることです。安易な同情や同意は、かえって関係を損ねることになります。
営業って、最後には「うーん」「ほう」と感心してもらったり、驚いてもらったりするために、話を聞き続け、話し続けること以外にはないと思っています。
私は自分のことを「動く広告塔」だと思っています。補装具の営業を、補装具を使っている私がする。こんな強みはありません。私にとって障害は、不便ではあるけれど、いまの仕事を続ける限り強みであり武器でもあるのです。

受傷当時、仕事はどうしよう、これからの生活をどうしようと思った私ですが、いまでは部下を抱える身となりました。不便を解消するために多くの部下、同僚に支えてもらっているのは事実です。そんな私の使命は、部下が楽しく仕事ができて、豊かな暮らしを実現することだと思っています。そのための仕事だと、そのために働いているのだと。でも仕事だけではありません。同じように障害を持つ仲間と車いすバスケットボールのチームをつくり、楽しみながら練習に、ゲームに汗を流しています。
いまでも十分に充実していますが、もっともっと充実した日常を、働くことや趣味を通じてめざしていきたいと考えています。
