ぼくは絶対にお医者さんになる#35

私のからだ、首から下は全く動きません。
20年前の夏でした。国立大学医学部の3年生でした。誤って自宅の階段から転落し頸椎を骨折してしまいました。転落直後から意識はあったのですが、からだ全体がしびれたようになり、感覚がなくなってしまいました。からだが宙に浮いたような感じがして、だれかぼくのからだを早く床に下ろしてくれとずっとつぶやいていたようです。
自分が通う医学部の付属病院に救急搬入されそのまま入院したのですが、事故から2日目、麻酔から覚めた直後に担当教授から告げられました。
「君のからだは、四肢に麻痺が残る。手も足も2度と動かない。医師になることもかなわないと思う。これからの人生のことよく考えなさい」
私自身の医学的知識でもおおよそは予測のついたことでしたが、はっきり告知されると頭の中が真っ白になり、ただただ涙があふれました。当時からすでに、「バリアフリー」だとか「障がい者の社会参加」だとかはささやかれていました。しかし国が社会をあげて「バリアフリー」「障がい者の社会参加」をすすめても、一般の就労はできない障がい者が大多数だったことは否定できません。さらに現在では改正されましたが、当時の医師法では医師の資格には身体的条件も定められていて、四肢麻痺の学生が医師の国家試験に合格するなどほとんど不可能だったのです。
でも私は医師にならなければならなかったのです。それは医師だった亡き父との約束でしたし、何よりも私は医師になりたかったのです。しばらく考えた後、母に打ち明けました。
「ぼくは絶対にお医者さんになる。障害が残ってもちゃんと社会人として前向きに生きたい」
母は黙ってうなずきました。それは思いきりやりなさいということだと思いました。
しかし学内では、私の就学をめぐって大きな議論が起こっていました。これが他の学部なら私自身の意志と能力、健康状態がちゃんとしてさえいれば認められるのでしょうが、医学部となると事情は変わります。医学教育は医師の養成を社会から付託されている責任があります。医師としての業務を適切に果たせるかと考えたとき、障害をもった学生の就学に慎重になるのは私にだってわかりました。
結果として学内はバリアフリー化が遅れている。障害のある学生がいるなどということは想定されていないのです。たとえ学校が就学を認めてくれたとしても、教室の移動や実習などに大きな困難が伴うことは明らかでした。
ところが私には強い支えがありました。事故直後から20人以上のクラスメートが動いてくれたのです。彼らは3交替24時間の介護・介助態勢をつくりあげると同時に、就学復帰や学習面での支援態勢を整えてくれたのです。入院中は病室で、退院後は自宅、学校で生活・学習あらゆる場面での支援が受けられるようになったのです。
大学も積極的な支援をはじめてくれました。授業出席の仕方、学習や試験、さらには自宅学習の方法、学内・自宅での生活、国家試験の受験などへの対応を検討してくれました。基礎医学系の実習は見学参加、臨床医学系の実習は同級生とのチームで、手術はモニターテレビで、そして試験は口頭試問で。20年前、当時としては前例のない取り組みでサポートしてくれました。
でも最大の問題は国家試験でした。
私の生活はベッドの上か車いすの上で24時間過ごすことになりました。手と足の自由がきかないわけですから、車いすはリクライニング機能のついた電動車いす。ジョイスティックは使えませんから、顎をのせる台を着けそこに息を吹き込むためのチューブが出ています。息を吹き込む回数で前後・左右、リクライニングの角度を決めるのです。移動手段はそうやって獲得しました。
難しかったのは学習の手段です。見聞きすること、話すこと、考えることに問題のなかった私ですが、メモをとったり、書くことで考えをまとめたり、レポートを書いたりすることができなかったのです。当時はまだパソコンというものはあまり普及していませんでしたし、受傷後はじめてパソコンを使い始めました。
今なら音声入力が一般的ですが、当時四肢麻痺の場合文字入力は口に加えたスティックでトラックボールやキーボードを操作するのが一般的でした。少々時間をかけて練習をくり返し、日常的な学習はそれでなんとか乗り切りました。
医師国家試験は2日間、10時間にもおよぶ試験でした。パソコンを使っての解答が認められましたが、スティックを口に加えて解答し続けるのは、顎などへの負担が大きすぎ試験を受け続けられないことがはっきりしていました。そこで大勢のひとたちが検討を重ねて、私のために新たな文章入力システムの開発に取り組んでくれました。
ジャイロセンサー(1秒間に何度動いたかを検出するセンサー)の技術応用でそれは解決しようということになりました。頭部に2つのジャイロセンサーを装着し、頭を動かすことで発生する角速度を検知して頭の位置を算出し、カーソルの移動を指示するというものでした。クリックやドラッグは車いすで使っている呼気チューブをスイッチとしました。
結果からいうと私は、国家試験に無事合格することができました。パソコンや文章入力システムの支えは大きな力となりました。でもそれだけではありませんでした。私には母をはじめ、クラスメート、先生方、そして大学と、多くの支えと励ましがありました。そこには私に対する大きな期待があったのだと思います。どんなに重い障害があっても「医師になる夢」をあきらめるなって。もしだれもやったことのないことなら、君がはじめての人になったらいいじゃないかと。ある教授に言われました。
私は自分の責任の重大さをつくづく感じました。国家試験に合格し医師としての研修が進むに連れ、自分にはいったい何ができるのだろう、医師としてちゃんとやって行けるのだろうかと深く考えるようになりました。
四肢麻痺で車いすですからね、初対面の時、びっくりする患者さんが多いと思いますよ。こちらは医者としてどんなふうに見られるか、不安がないといったらウソになります。患者さんは違う意味で不安でしょうけれど。
そんな不安を打ち消すのは、医師としてきちんと仕事をすること以外にないことはわかっていましたが、それ以上に「がんばってください」「先生を見ていると自分もがんばらないと、と思う」という患者さんのことばが私の不安を取り除いていってくれたのです。
現在私は精神科医として介護施設に勤務しています。ほとんどの患者さんがベッドで寝たきりか車いすでの療養生活です。わたしも同じ境遇なのです。そんな私だからこそ理解できる苦しみ、解決できる悩みがあるはずだと思い続けています。
もっというなら、障がい者が医師になる意味はそこにあるのだと思っているのです。患者さんの痛みがわかる、できないことのもどかしさがわかる、患者さんの身になって病気を診ることができるはずだ、と。
医師としての責任と希望、そして夢。決して忘れることなく、日々を過ごしていきたいと思っています。
