そうだ、京都へ行こう!前編#40


75歳になる母の話を聞いてください。
母は2年前アルツハイマー型の認知症だと診断されました。それは母自身にとっても私たち家族にとっても非常にショックなことでした。
はじめは些細なことでした。約束していた日時を間違えたり、人違いをしたり、笑ってすませるような、そんなことが多くなったのです。
「私ももう年だから」
母のそんなひと言で何もかも解決し、母も私たちも深刻に受けとめるなどということは、まったくありませんでした。
ところがある日のことです、買い物に出たはずの母が、ご近所のご主人に自宅まで送り届けてもらうという出来事がありました。
その方が私にこうおっしゃったのです。
「お母様、迷子になられていたようなので……」
詳しく様子を聞くと、その場所は母が通い慣れているスーパーの近くだったとか。母はその方に「帰り道がわからなくなったの」と言ったそうです。
母にそのことをたずねると、時々そんなことがあるというのです。
「私、バカになっちゃったかも……」
と笑いながら。
瞬間的に「認知症」という言葉で私の頭の中がいっぱいになりました。そうなるといままで笑い事ですませてきた些細なことが、気になって気になって仕方なくなったのです。
すぐに家族にも相談し、一刻も早く診察を受けようということになりました。
診察室で見せられたMRI画像は、母の脳が萎縮していることをはっきりと示していました。病状はかなり進んでいること、根本的な治療法はないこと、進行を抑える薬はあるが副作用が強いことなどを説明として聞きました。
そしてお医者様は最後にこう言われました。
「認知症を抱えたって明るく元気に生活している人はたくさんいます。お見受けしたところお母様はとても明るくて前向きなご性格です。これから先いろんなことがありますが、どうぞ前向きに考えてください。悲観的になることがこの病気にはいちばん悪いのです。」
ショックでした。それは母自身も一緒だったと思います。
でも確かに母は明るくて何事にも前向きでした。だからこそ少々のことは笑い事ですませてこられたのです。
なにも診断がついたからといって突然暗く、悲観的になる必要はない。私は自分にそう言い聞かせて、気持ちを奮い立たせました。
そして最初にしたことは、母に病気の事実を伝えることでした。
黙って話を聞き終えた母は、笑いながらこう言いました。
「私、認知症になっちゃったのね。迷惑かけるかもしれないけど、これからもよろしくお願いします。」
その言葉を聞いて、私たち家族の気持ちは決まりました。何があっても母を守ろう、と。でも何かと闘うのではなくて、毎日を楽しく充実した時間で埋め尽くそう、と。
「何かあったときに助けてもらわないといけないから」
母がそう言うので、ご近所のみなさんにも母の病気のことを打ち明けました。これは病院の先生からもアドバイスされていたことでした。
「毎日を楽しく充実した時間で埋め尽くす」
言葉で言うのは簡単ですが、さてどうしたものか、これには少々悩みました。よく考えてみると、余計なことをしないで普段どおり生活するのがいいのだという結論にたどり着きました。でも、少しゆとりがあるときは旅行が大好きな母を、いろんなところに連れていってあげよう、などと。
そんなこともいいように働いたのか、母の症状はほとんど進行していないように思えましたし、お医者様からも「いい感じですねえ」と言っていただきました。
そうして1年が過ぎた頃、母が脳梗塞で倒れました。
脳が萎縮していたことも原因の1つだったかもしれません。幸い症状は軽く、左足に麻痺が残った程度で、何かにつかまれば自立して歩ける状態で、介護度も要介護1と認定されました。
しかし、これを境に母の明るく前向きな性格は次第に変化していきました。言葉が少なくなり、ふさぎ込み、何をするのも億劫だというようになったのです。
お医者様からはそれも認知症の症状のひとつだと言われましたが、私には症状というよりも、母がいろんなことをあきらめはじめているように感じられて仕方ありませんでした。
どこに誘っても、
「どこにも行きたくない。お家がいちばん楽しいのよ」
と言うし、食事に出かけようと言うと
「お家で食べるご飯がいちばん美味しいのよ」
と答える。その言葉の裏側に 〈私の人生はもう終わり、どうなってもいいのよ〉 という無気力であきらめに満ちた母の心の内が見えるようでした。
そして今年の夏です。私の夫が突然言い出しました。
「そうだ、京都へ行こう!」
どこかで目にしたことのある広告の文句です。
「鹿児島中央駅から新幹線みずほに乗って、新大阪駅で乗り換えて。飛行機なら乗り換えも多くて面倒だけど、新幹線なら1回だけで京都に着くよ」
京都は母にとって亡父と新婚旅行で訪れた思い出の土地です。それはいいかもと思いましたが……。
「長距離、長時間の移動は車いすが欠かせないわ。京都の街を歩くのだって。車いすを持って旅行するのは大変じゃない?折りたためるけれど、けっこう重いし、場所だって取るわ」
私は不安を夫にぶつけました。
「君が不安に思ってどうするんだい」
夫は笑って答えました。
「大丈夫だよ。介護用品のショールームでコンパクトな折りたたみ式の車いす、見つけたんだ。とても軽いけど、丈夫だし。ぼくも乗ってみたけど、何の不安も恐怖もなかった。それにJRに問い合わせたら乗り降りの介助やホーム移動の誘導はちゃんとしてくれるって」
「そこまで調べてくれたんだ……」
「ああ、大船に乗ったつもりで。宿の手配も大丈夫。お母さんが気兼ねしなくてもいい1日1組だけっていう宿を探したんだ。問い合わせたら車いすOKだって。ちょっと贅沢だけどね」
「えっ、ということはもう予約したんだ」
夫に感謝しながらも、私は母が首を縦に振ってくれるかどうかが不安でした。
案の定、母は「行かない」と言いました。
「私が動くと大勢の人が迷惑する。自分の楽しみのために、まわりの人をふりまわすなんてできないわ」と。
するといつになく夫が強い調子で言いました。
「お義母さん。何を言ってるんですか。そんなにかっこうつけないでふりまわしゃあいいんですよ。ぼくたちはふりまわされたいと思っているし、見ず知らずの人までが手伝おうって言ってくれてるんですよ。ふりまわすことなんてできないなんて、そんな優等生みたいなこと言ったって、人間誰しも1人で生きているわけじゃないんですよ。誰だって誰かを振り回しているんですから。もうちょっと素直に甘えてくださいよ!」
「わかりました。そこまで言うなら、お任せします。よろしくお願いします。」
母は小さくそう言いました。
そして、母と私たち夫婦の京都旅行が決まりました。

しかも10万円あまりと全額負担するには少々高額。介護保険(対象)外レンタルもすすめられたそうですが、
「旅行にはうってつけの車いす。これしかない」(夫)と、思い切って購入したのです。
これを機会にかならず外出が増えるからと、夫がすすめてくれたのです。
彼が言ったように、コンパクトで軽いけど、とても頑丈にできていました。それに小回りも抜群。新幹線の狭い通路でも大丈夫そうだし、折りたためば座席の足元に置けそう。
出発当日、改札口に行くと駅員さんが待ってくれていました。
出発ホーム、時間、座席を確認して駅員さんが言いました。
「こちらでは私が座席までご案内します。新大阪に着くまで車内で何かありましたら客室乗務員が対応します。その旨申し渡してあります。
新大阪に着きましたら乗降口で駅員がお待ちしています。乗り換えの誘導はその者がいたします。これもすでに連絡済みです。どうぞ安心して旅を楽しんできてください。」
駅員さんの言葉どおり、新幹線の旅は快適でした。まわりのお客さんもいろいろと世話をしてくれたり、気をつかってくれたり、少々恐縮することもありましたが、母も進んで身を委ねていました。
正直に言うと、この旅をいちばん不安に思っていたのは私だったかもしれません。母にとっても私たちにとってもいい思い出になれば、ただその思いだけで夫を信頼して出かけたのです。
でも、帰ってきて、ああ、こんなに楽しい旅は今までになかったと、いちばん喜んだのも私だったかもしれません。いえ、母が喜んでくれたことは言うまでもありませんが。
そして母がこの旅で得たものは、思い出だけではありませんでした。
それは、
「やればできる」
という自信でした。そしてもうひとつ
「自分は決して1人ではない。大勢の人と一緒に生きているんだ。支えられているんだ」
という確信でした。
以来母の無気力な姿はどこかに消え、元通り明るくて前向きな母が戻ってきました。夫は次の旅の計画立案に余念がないし、私はと言えば今度は母と2人きりで出かけてみようかなと密かに思っています。
余談ですが、3人で祇園を散策していたとき舞妓さんと写真を撮っていただきました。その時舞妓さんが、「いやあ、かわいらしい車いすどすなあ」と言ったので、あの車いすは「マイコ」と名付けられて家族の一員になっています。
えっ? 京都の旅はどうだったかって?
それはまた次の機会にお話ししたいと思います。
