そうだ、京都へ行こう!後編#41


73歳で認知症と診断され、74歳で脳梗塞に倒れ、何事にも無気力になってしまった母。
以前の明るかった母を取り戻そうと、家族で京都旅行に出かけることにしました。その結果、「やればできる」「自分は決して1人ではない。大勢の人と一緒に生きているんだ。支えられているんだ」ということに気づいた母が、明るさと前向きさを取り戻してくれたことは前回お話しました。
今回は楽しかった2泊3日の京都旅行のお話しをしたいと思います。
実は、母は若い頃から京都が大好きだったのです。
度々訪れ、亡くなった父とはじめて旅行に出かけたのも京都だったそうです。母にとっては思い出の地だったのです。
「ほんとうはもう1度京都に行ってみたかったのよ。お父さんとの思い出の場所、もう1度歩いてみたかったの」
出発する前日、母がそっと打ち明けてくれました。
私が想像するに、旅行に出かけることを渋ったのは、私たち夫婦に対する遠慮が大きかったのではないかと思います。
第1に、病気の後遺症であれ障害を持つ自分を介護するのは自宅でも大変なのに、それが旅先ともなればもっと大変になるだろう。
第2に、車いすを押しながらの移動が知らない土地で、しかも1日中続くのだから、いつにも増して大変だ。結局何をするにしても、どこに行くにしても、大勢の人の手を煩わせてしまう。「だったら動かない方がいい」と。
そんな母を見ながら、私は
〈そんなこと遠慮したって、必ず誰かの世話にはならないと生きていけないのに……〉
と、ずっと思っていました。〈もっと甘えてくれたらいいのに〉と。
だから私は、この京都旅行を通じて、母にたっぷり甘えてもらおうと思っていたし、まわりの人にも甘えてしまおうと思っていたのです。
誰かの手を煩わせるのは、誰にとっても生きていくために必要なこと。甘えることも、甘えられることも大切なこと。そんなことを母に気づいてもらいたかったのです。
京都は世界遺産の宝庫。世界遺産として登録された寺院、神社は17にのぼります。それ以外にも見所はたくさん。でも母は、
「お父さんと一緒に行ったところが、私の思い出遺産よ。そんな場所をたずねたいのよ」
などと恥ずかしそうに言いました。その場所を聞き出すと、たくさんありすぎてとても2泊3日ではまわりきれないことがわかりました。
結局、父は東山の麓に点在する寺院、神社が特にお気に入りだったというので、2日目にたっぷり時間をかけてその足跡を訪ねることにしました。
1日目の午後、京都に着いた私たちは八坂神社近くのホテルにチェックインしました。祇園の目と鼻の先で、まさに観光名所の真ん中でした。荷物を解くのもそこそこに、散歩に出かけようと言い出したのは母でした。 ホテルのフロントで教えてもらったとおり、〈祇園コーナー〉というサインを目印に花見小路へ。見るからに観光客という人たちでにぎわっていました。夕暮れ近かったこともあったのでしょうか。どことなく風情があって、漂う空気自体が違うように感じられました。
「これが一力(いちりき)。忠臣蔵で大石内蔵助が遊んだお茶屋さんなの。この通りをまっすぐ行くと建仁寺」
母がガイドを務めてくれました。
父と肩を並べて歩いた日のことを思い出しているのでしょうか。 こんなにしっかり思い出せるのに認知症だなんて……。
私は少々悔しい思いがしました。
小さな路地から2人の舞妓さんが現れました。すると歓声が上がり通りの雰囲気はがらりと変わりました。
何を思ったか夫はそのそばへ駆け寄り、ぺこぺこと頭を下げ何やら話しています。そしてしばらくすると笑顔の舞妓さんたちを連れて戻ってきました。
一緒に記念撮影をとお願いしたというのです。母が喜んだことは言うまでもありません。するとその1人が母の車いすを見てこう言ったのです。
「いやあ、かわいらしい車いすどすなあ」
写真を撮り、舞妓さんたちが行ってしまった後、母が言いました。
「舞妓さんがかわいいと言ってくれたので、今日からこの車いすはマイコちゃんと呼びましょう」
母の「マイコちゃん」は普通の車いすに比べるとずいぶん小さいけれど、京都では大活躍してくれました。
軽量、コンパクトで見た目もスタイリッシュ。新幹線やタクシーなどに乗るときは、手荷物サイズにまで折りたためるので邪魔にもならないし、持ち運びも楽々でした。
2日目早朝ホテルで朝食を済ませ、私たちは父の足跡を訪ねる散策に出かけました。
最初にめざしたのは大河ドラマにもよく登場する、豊臣秀吉の妻ねねの寺として親しまれる高台寺。そこから北に向かい円山公園、八坂神社、知恩院、智積院とまわり、平安神宮を経て南禅寺をめざしたのです。そしてもし時間にゆとりがあれば哲学の道を歩き、銀閣寺まで行こうと。すべてを徒歩で、です。
遠慮してタクシーでまわろうという母に夫が言いました。
「タクシーを使ったらお父さんの足跡を訪ねることにならないじゃない。歩きましょうよ。ぼくに任せて」
言葉通り、夫はずっと母の車いすを押し続けてくれました。何度か私が代わると言ったのですが、「大丈夫だ」と笑って押し続けてくれたのです。 普通に歩いてもそこそこ時間がかかる距離なのに車いすを押しながらの移動ですから、残念ながら銀閣寺まではたどり着けませんでした。
アップダウンもきつく、ときには古くなったでこぼこの歩道や玉砂利、それに歩道と車道の段差など、車いすには少々大変な道のりでしたが、母の思い出話を聞きながらの、ゆっくりのんびりした散策でした。
ところで京都を散策して気づいたことがありました。
京都は歴史と文化の中心であり、世界遺産もそれに並ぶような文化財もたくさんあります。そういうまちの構造だけを見ると、母のような「移動弱者」には決して優しい構造にはなっていないということです。
「石段や階段、それに石畳が多くて、バリアだらけだわ」
と横でぼやく私を見上げるように母が言いました。
「だってあなた、すべてが文化財なんですもの、簡単にスロープをつけたり、段差を削ったりできるもんですか。そんなことをしたら便利になるかもしれないけれど、良さや美しさも一緒に消えてしまいそうだわ」
そう言われてみるとたしかに正面を迂回するようにスロープがつけられ、違うルートをたどれば車いすでも同じように見て回れるよう配慮されていたり、そういう設備がないところでは大勢の職員さんが力を貸してくれるように準備されていたり、さすがに世界の観光都市だと感じました。
しかし母はスロープも、大勢の人の力も、使おうとはしませんでした。とくに八坂神社、知恩院、智積院、南禅寺では、門前の石段の前に車いすを止め、そこから前へ進もうとはしませんでした。
「また遠慮してるの?」 と聞くと、笑いながら首を横に振り、こう言いました。
「お父さんと一緒に歩いた道を歩きたいの。違う道は通りたくない。だったらここからながめている方がいいの」
私はそういう母の代わりにあちこちを見、デジタルカメラに収め、門の外で待っている母にそれを再生して見せました。
母は、ここはこうだった、そこはそうだったと、記憶をたどるように教えてくれました。母の中の思い出は実際の風景と見事に重なっていました。
夫は「せっかくだから、おぶって行こうか」と何度となく言いましたが、母は首を横に振り「あの時と同じ空気を吸っていると思えるだけでいいの」と言いました。
「なんだか夢見る乙女みたいだな」
「そうよ。いくつになっても乙女は乙女」
「でも乙女っていう言い方が、かなり古いね」
夫と母はそんなことを言い合って笑いました。
その光景を見て、私は、京都に来てよかったと、心底から思いました。
あっという間の3日間でした。
鹿児島から京都まで、4時間あまり。距離でいうと1000キロ以上。
この移動は母にも私にも大きな自信になりました。
「京都に行けたのだから」
これが合い言葉です。
「京都に行けたのだからどこへでも行ける。何でもできる。やればできる」
人に力を借りることは恥ずかしいことじゃない。誰だって大なり小なり力を借りている。そんなことにも気づきました。
「おかげさま。おたがいさま」
これがこの頃の母の口癖になっています。
そして、 「次は東京ディズニーランドに行きたい!」 が新しい口癖として加わったようです。
今回の京都旅行は、私たち家族に自信と希望と夢を再発見させてくれた旅でした。
私たちにできたのですから、きっとみなさんも「やればできる」のです。
