取り戻した笑顔#47


夫婦が異変に気づいたのは10年前。
夫の中村裕司さんが40歳、妻の浩子さんが36歳の時でした(共に仮名)。 浩子さんが「からだに力が入らない」と訴えはじめたのです。
はじめは疲れがたまっているのだろうと思い、かかりつけの内科を訪れたそうです。医師の見立ても「疲労でしょう。お薬を出しますから様子をみましょうか」というものでした。しかし一向に倦怠感、脱力感は改善されず、逆に段差もない廊下で転倒するようなこともありました。
「得体の知れない不安が日増しに募っていくのです。妻が得体の知れない病気に冒されているのではないかって」
夫の裕司さんは当時をそうふり返ります。
夫婦はいくつもの病院を訪ね歩きました。が、明確な診断は下されませんでした。この医学の発達した時代に、診断がつかないなどおかしいじゃないかと裕司さんは何度となく医師に食い下がったといいます。
「不安だけが大きくなるのです。その間妻の体力はどんどん落ち、1年ほどで立っているのがやっとという感じになり、手先もずいぶんと細かい動作ができなくなったように思えました。しゃべることも笑うこともおぼつかないのです。先行きが不安で地獄のような日々でしたよ」
そうして異変に気づいて1年後、ようやく診断がついたのです。
〈筋萎縮性側索硬化症〉
「病名を聞いた時、えっ、それ何ですか?という感じでした。聞いたこともない病名なのです……。」
そんな裕司さんに医師は、浩子さんの病気の恐ろしい事実を伝えました。
筋萎縮性側索硬化症(ALS)は次第に筋肉が衰える進行性の難病で、原因も解明されていないし治療法も確立されていない。発症からほぼ5年で死に至る。ただし、医療技術が進歩しているので気管切開による呼吸管理を徹底すれば、発症から10年以上生存する例もある。
「目の前が真っ暗になりました。なんで妻が。なんでそんな難病に……。私たち夫婦が何か間違いを犯したのか。だれを恨んだらいいのか。もう何がなんだかわからなくなってしまいました」
でも浩子さんはおぼつかない口調でこう言ったそうです。
「おとうさん、ごめんなさい。面倒な病気になっちゃって。私、がんばるから、よろしくお願いします」と。
裕司さんはその言葉を聞いて、目の前の闇が一気に明るくなったように感じたといいます。裕司さんは浩子さんを支えてその難病に立ち向かう決意をしました。
医師は診断を下す時に、これから浩子さんの病状がたどる経過とともに、どのような公的支援(*1)が受けられるのか、そのためにどんな手続きをとればいいのかを説明してくれました。
「それは決して2人きりでは立ち向かえないことを宣告されたのと同じ意味を持っていると思いました」
裕司さんはふり返ります。浩子さんの病状は医師の説明通りに進行していきました。 しかし、夫婦がALSの本当の恐ろしさを実感するのはそれからしばらくしてからのことだったのです。
診断が下されて1年後、異変に気づいてから2年が経過していました。浩子さんのからだは動かなくなり、顔からも表情が消えました。言葉を発することもできなくなったのです。日常生活のすべての部分に介助が欠かせなくなったのです。
裕司さんは夫婦でALSに立ち向かうと決めた日から、ずっと考え続けたといいます。
日々衰えていく妻のために、いったい何ができるのかと。重度心身障害者日常生活用具の給付制度や難病患者等日常生活用具の給付制度を利用して、電動ベッドやオーダーメイドのリクライニング車いすをつくり、すべてを浩子さん中心の生活に切り替え、すべての時間を浩子さんのために使いました。それが夫婦のためでもあるのだと。
裕司さんは事ある毎に浩子さんの意志を確認し、浩子さんの意志を大切にすべてのことを決め、暮らしを積み上げてきました。しかし、ALSは夫婦間の意思の疎通までをも奪ってしまったのです。
ALSは浩子さんから動きを奪い、言葉を奪い、表情を奪いました。それでも眼球が動く間は文字盤を追う浩子さんの目を追いかけながら会話を維持することができました。
しかしまぶたも動かず、眼球も動かない状態になると、裕司さんは浩子さんの意志を確認する術(すべ)を失ってしまったのです。
医師は裕司さんに言いました。ALSの本当の恐ろしさ、それは「閉じ込め症候群」だと。ALSはからだの力、動きは奪いますが、精神の力、働きは健康な時のままなのです。
つまり意識ははっきりし、意志も喜怒哀楽もちゃんとあるのです。しかし、それを表明するからだの動きをすべて失ってしまうのです。ALSの患者さんは意志も喜怒哀楽も自らの外に表明することができない。だから「閉じ込め」なのです。
(夫婦で立ち向かうはずだったのに、気がつけば自分1人が立ち向かっている。私がやっていることは、妻が本当に望んでいることなのだろうか……)
裕司さんはそんな疑問に囚われはじめました。
からだの動きを奪われるのとほぼ同じ頃、裕司さんと浩子さんは気管切開をして人工呼吸器による呼吸管理を受けることを決意しました。その直前のやり取りを裕司さんはよく思い出します。浩子さんは人工呼吸器を着けることに否定的だったのです。文字盤を使っての会話でした。
「お父さんにこれ以上迷惑をかけられない」
「何を言っているんだ。2人で立ち向かうと決めたじゃないか」
「でも、お父さんの時間は24時間すべて私の介護になってしまう」
「それでもお前に生きてもらいたい。これは私の思いでもあるし、それが私たち夫婦のためなんだ」
最後は裕司さんが押し切る形で気管切開手術が行われました。
(本当に正しい決断だったのだろうか)
裕司さんは今も悩み続けています。
(結果としていちばん苦しんでいるのは妻なのだ。すべてを妻のためになどと言いながら、それが夫婦のためになるのだと言いながら、実はすべては自分のためだったのではないだろうか)
裕司さんは悩みました。しかし、浩子さんの病状の進行はスピードを緩めるどころか、確実に浩子さんの命の時間を縮めていました。
鹿児島を離れ独立した子どもさんたちはたまに帰郷した折、浩子さんを見て
「顔色はいいよね」
「元気そうだね」
「頑張ってね」
などと口にするそうですが、裕司さんはそんな言葉を耳にするたびに虚しくなったといいます。
「浩子がどんな思いでいるのか、ほんとうのところは誰にもわからない……」
そんなふうに思っていたのです。
訪問介護や訪問看護・訪問入浴などをきめ細かに利用し、浩子さんの日常を手厚く介護する。そういえば聞こえはいいですが、あらゆるケアを他人まかせにし、自分は傍観者のようにその光景を眺めている。そのうちにそのことが気まずくなり、サービスを受けている間は外に出るようになりました。
訪問看護師さんやヘルパーさんは、そんな裕司さんを責めるどころか、「ゆっくり気分転換してくださいね」と優しく接してくれたそうです。
そのことがまた、浩子さんと一緒に立ち向かっていない自分を浮かび上がらせて、自分自身を責めてしまう。裕司さんはそんな出口の見えない苦悩の迷路に自分自身を追い込んでいったのです。
裕司さんはモニタリングに訪れた私に重い口を開いてくれました。
「一緒にいても、妻は言葉を発する事も出来ないし、無表情で……。私のしていることをどう思っているのかもわかりません。いいのか、悪いのか。好きなのか、嫌いなのか。私は、私の決めたことを妻がそう望んでいるのだと思うほかないのです」
裕司さんの言葉の合間を埋めるのは、ひゅーばこん、ひゅーばこんという浩子さんの呼吸器の音だけでした。
「私がこんなふうに思っているというのも、妻はよくわかっています。いまこうやってお話ししているのも、ぜんぶ聞こ えているのです。そのこと自体妻にはとてもつらいことだと思います……」
私は話を聞きながら、夫婦の絆をも蝕んでしまうALSという難病の恐ろしさを垣間見たような気がしました。もし私が、もし私の妻がこの病気に冒されたら……。そう思うとその場にいたたまれなくなりました。
裕司さんは日々のつらい思いを打ち消すように、浩子さんが元気だった頃の楽しい思い出をたくさん聞かせてくれました。でも、こうも言うのです。 「 発病して10年。 楽しい幸せな思い出より、つらい苦しい思い出が増えて行きそうな気がして恐いのです。ずっと不安と恐怖と向き合いながらの暮らしです」 その一方で裕司さんは訪問してくれるヘルパーさんや看護師さん、訪問入浴のスタッフ、そしてケースワーカーさんや私にも、「いつも感謝しています」と言ってくれます。
「大変な介護なのに、みなさん笑顔で接してくれて、その様子を見ていて私自身もサポートされているんだなあと実感してるんです」
そうしてある日、浩子さんの在宅療養を支える担当者が顔を揃えたカンファレンス(※2)の席で裕司さんが言いました。
「私に何か出来ることはないのでしょうか。このままだと、すべてをみなさんにまかせているようで……」
いろんな議論を経て、 理学療法士さんから提案がありました。
「移乗用のリフトを導入されたらどうでしょうか。ベッドから車いすへの移乗も、ご本人はもちろん介護する側もずいぶん楽になるはずです」と。 そこには、「介護をまかせっきりにしていると自分自身を責めるなら、介護者をサポートすることで奥様を一緒にサポートしましょう」という思いも込められていたのです。そうすることで裕司さん自身のつらさ、苦しみも和らぐのではないかという思いです。
数日後、床走行式電動介護リフトを納品しました。すると、それまで裕司さんの目に大変に大変そうに映っていたベッドから車いすへの移乗が、とてもスムーズに楽にできるようになりました。
「ヘルパーさんや看護師さんがケアしてくれている様子を見ていると、ほんとに大変そうで申し訳なかったのです。だから見ていられなかった。朝夕のベッドと車いす間の移動も全部ヘルパーさん任せ。着替えもですよ。でも、1人ではどうすることもできなかったし……。私が手伝うと邪魔をしているような気がして……。結局は任せ切りにでも、リフトを使えば、私にだってできることはまだまだあるはずだって思えて、ちょっと前向きになれました」
裕司さんはそうふり返りました。
あわせて車いすも現状のオーダーメイドでのものでは対応が難しくなってきたため、より高機能のリクライニング車いすを購入することになりました。
それからしばらくしてのことです。裕司さんからうれしい連絡が入りました。
「信じられない話でしょうが、妻に笑顔が戻ってきたのです。2人で昔の写真を見ていたのです。懐かしいねえ、楽しかったねえって話しながら見入っていたのですよ。すると微かですが妻が笑ったように見えたのです。子どもたちに言うと、そんなバカなと言いますが、私はわかるんです。妻は笑ったんです。 妻の笑顔を10年ぶりに見て、一生面倒見ていくからなとあらためて心に誓いました。」
電話の向こうの裕司さんは一気に話しました。
私は思いました。浩子さんだって、在宅での療養生活を支えてくれる大勢のスタッフに感謝する一方、苦労をかけて申し訳ないという思いや遠慮もあるはずです。
移動用リフトや日常生活を支えてくれる様々な用具を導入することで、看護、介護の苦労が少しでも楽になるなら、浩子さん自身にとってもうれしいことに違いありません。だから表情だって穏やかになっているはずだと。
裕司さんが言うように、心の中ではきっと笑っていらっしゃるのだと信じています。
