逆転の夫婦~支え合うことで元気に暮らす~#57


今年88歳になる父と86歳になる母の話を聞いてください。
90歳を目前にした両親の生き方を通して、改めて夫婦の絆の大切さを感じました。とは言え、両親はどこにでもいる普通の高齢者夫婦です。
両親はともに、昭和の初めに大隅半島のとある小さな町で生まれました。2人の家は遠戚関係にあり、しかもすぐ近くで、幼なじみというよりは兄妹のように育ったそうです。ずっといっしょに暮らしていたのです。
だから終戦後すぐに、当たり前のように結婚しました。
「子どもの頃からいっしょに生きていく運命だったんだよ」
それが父の口癖でした。
のろけともつかない父の言葉に、母は顔を赤らめて微笑むばかりでした。
そばで見ていると息子である私もなんだか恥ずかしくなるような、いくつになってもそんな仲のいい夫婦でした。
ただひとつ難を言えば、父がとても頑固なことでした。
父は戦後教員となり教職一筋に勤め上げました。
座右の銘は「不言実行」。
こうと決めたら頑として曲げない。そんな父に母は黙って付き従って暮らしてきました。
頑固なうちは元気な証拠だと思っていましたが、ただ私には少々心配がありました。両親の住まいのことです。
両親には長男の私の外に、2女がおりました。私からすれば姉と妹です。しかし、2人は県外に嫁ぎ、私は鹿児島市内におり、両親は2人きりで暮らしていました。私は何度かいっしょに暮らそうとすすめたのですが、父の退職後生まれ故郷に家を建て2人で暮らしていたのです。
その家が両親の希望で、2人が幼い頃暮らした昔ながらの家屋を模したものでしたので、玄関の上がり框、居室から台所、浴室・トイレなどに少々段差が目立つ建物でした。
母が80歳になった年に、これからのことを考えて、建物に手を入れて段差を解消し暮らしやすいようにしたらとすすめました。
「経済的にもゆとりがあるのだから、
もっと暮らしやすくしたらいいじゃない」
と。
しかし、父は頑として聞き入れてくれませんでした。
「そういうことが体力の低下につながるんだ。これからまだまだ長生きするためには足腰を鍛えないと。楽ばかり考えるといずれ寝たきりになるんだ。もっと体を鍛えないと」
それが父の言い分でした。
母も、「まだまだ体も動くし、家の中の段差もそんなに気にならないの」と笑っていました。
結局どうしてもと食い下がる私をなだめるように、玄関の上がり框の段差を解消するスロープと手すりをつけました。しかしそれは、一目見て使えないとわかるほどの急勾配で、形だけのものでした。
父がそこまで頑固だとは……。
父の気のすむようにさせるしかないと思いました。
母が85歳で加齢により要支援1の介護認定を受けたときもそうでした。
心臓に軽い持病(軽度の狭心症)を持っていた母は、周囲のすすめもあって介護認定を受けたのです。何か困っていたというわけではなく、何かあったときにスムーズにいろんなサービスが受けられるようにということでした。
私は再度両親の住まいの中の段差の解消をすすめました。
「母さんも介護認定を受けて介護保険も使えるし、いろいろと考え直してみたらどう?」
と。
しかし父は「人様の手を借りる」「福祉の世話になる」ことに大きな抵抗を示しました。
それに結果として要支援1と認定されましたが、母はほとんど難なく自立した日々をおくっていました。
歩行に杖を必要とし、動作自体はゆっくりしていましたが、週に2度は歩いて買い物に出かけ、家事もすべて自分でこなしていました。この時も結局は何も変わりませんでした。
ところが、1年前父が脳梗塞で倒れたのです。
幸い大事には至りませんでしたが、左下半身に軽い麻痺が残りました。
半年間加療・リハビリで入院し、起居・移動もほぼ自力でできるようになりましたが、左足だけは少々ひきずって歩くという状態でした。
退院を目前にして介護認定を受け要介護1と認定されました。それを機会に私は再度両親に住宅改修をすすめました。経済的に逼迫しているわけでもなく少々ゆとりもあり、私たちももちろん援助をするので、思い切ってすべての段差を解消して、快適に暮らしてほしいと思ったのです。しかし、父はやはり頑に受け入れてくれませんでした。
「お父さんは教師を続けて長く転勤生活が続いたでしょ。だから、故郷の懐かしいお家で余生を過ごすというのが夢だったのよ。
お家の造りを見ているだけで子どもの頃を思い出すのですって。だからこれでいいのよ」
母もそう言って笑いました。
そうして退院、自宅療養をはじめて10日ほどたった頃でした。
父から電話がありました。
「おまえの言うとおり住宅改修をしようかと思って」
「なんだ、やっぱりきついんだね」
父は電話の向こうで力なく笑いました。
私は次の休日に両親を訪ねて話を聞きました。
父の話は私が想像していた内容とはずいぶん違ったものでした。
私は段差の多い家に父が根を上げたのだと思っていたのです。ところが父は言いました。
「母さんがきついだろうなと思って……」
父の「長生きするためには足腰を鍛えないと。楽ばかり考えるといずれ寝たきりになるんだ。もっと体を鍛えないと」という言葉の背景には、母と2人、夫婦2人で支えあって生きていくのだという決意が隠されていたのです。 父は脳梗塞で倒れるまで母の起居・移動にずっと手を貸していたのです。これから先もずっと、他人の手を借りるのではなく、自分の手で母を守り通すつもりでいたのです。
父は母にだけは常々言っていたそうです。
「母さんのことは私が守る」と。
家の中の段差も自分の手で、つまり自分の手助け、介助で解消するのだと。
ところが、自分の身体がわずかであるといっても不自由になった。自宅内の移動でも、手をさしのべる側からさしのべられる側になった。守ると言っていたのに、守られる側になったのです。
父の落胆はとても大きかったそうです。
守られる側になったというよりも、母を守れなくなったということがショックだったのでしょう。
「でもな、母さんが言ってくれたんだよ。おたがいに支え合いましょうよって」
両親はおたがい問題を抱えながらも前向きに生きていこうとしていました。
母は言いました。
「おたがいに問題を抱えているのなら、おたがいに支え合ったらいいわって思ったのよ。だったらおたがいの負担にならないようにするにはどうしたらいいか考えたの」
そうして両親は、「おたがいの負担にならないようにするために、やれることは何でもやろう、使えるものは何でも使おう」という結論を出したのです。
それで介護認定でお世話になったケアマネージャーさんに相談したそうです。
ケアマネージャーさんも言ったそうです。 「利用できるものはすべて利用しましょう」 そうして家事援助のヘルパーさんに入ってもらおうという話になった時も、父は異を唱えることはありませんでした。
たとえばお風呂の掃除は父がしていたのですが、それができなくなり母にとってはけっこうな重労働だったのです。それに対しては家事支援のヘルパーさんに入ってもらおうと。
「人様の手を借りる」ことに抵抗を示した父。それは体面を重んじてのことではなかったのです。それはひとえに母のことは自分が守る。守りたいという思いの表れだったのです。そして今度も、父は母を守るために最善の選択をしたに違いありません。
両親の自宅は外観そのままに、しかし内部はすべて新しく生まれ変わりました。
「もう老い先短いんだからそんなにお金をかけなくてもいいのよ。まだまだ元気だし」
と笑いながら言う母をよそに、父は徹底的に手を入れたそうです。
「無理をしなくていいんだよ。楽に楽しく生きていこうよ」と。
両親の家を訪ねました。
「ずいぶん変わっちゃったね。さみしくない? あんなにこだわっていたのに……」
私がそう言うと父は大きな声で笑って言いました。
「母さんが楽ちんそうだからいいんだよ。これで」
なんだかあれだけ頑固おやじだった父が、まるで好々爺になった感じがして微笑ましくて仕方ありませんでした。
私のそんな思いを察したのか、母もうれしそうに微笑みました。
【資料】
厚生労働省ホームページより「介護保険における住宅改修」
