みんな、ありがとう#61


「なぜだ!?私はまだこんなに元気だぞ。何かの間違いじゃないのか」
それが父の第一声でした。
忘れもしません。2014年3月5日のことでした。
父は88歳。確かに高齢ではありましたが、私の目から見ても元気で、実年齢よりも遥かに若く見えました。その父が目の前で肺ガンだと告知されたのです。しかも、ステージ4、末期だと。
その数日前、かかりつけの病院に健康診断の結果を聞きに出かけた父は、主治医の先生から地域支援病院への紹介状を手渡され、必ず家族と一緒に受診するようにと言われたのです。家にもどった父にそのことを告げられて同行を求められた時、私はそんなに深刻には受けとめていませんでした。父も同様でした。
「ひょっとするとガンでも見つかったかもしれないな。でも、手術でも何でもするさ。 俺はまだまだ体力には自信があるんだ」
そう言って笑っていました。ところが……。
「残念ですが、ステージ4です」医師はMRI の画像を見つめながら、無情にも言葉をくり返しました。
確かに右側の肺に白い大きな影が写っていました。
「7cm 大になっています」
「だから、私は元気だと言っているではないか。食欲もあるし、痛いところもかゆいところもない」
「紛れもない事実です」
「間違いないのですね」
私が念を押すと医師は黙ってうなずきました。
医師の話では、手術も抗ガン剤治療もできない、このまま成りゆきに任せるほかないということでした。
「でも、高齢だから進行もそんなに早くないのですよね」
私がたずねると、医師は申し訳なさそうに言いました。
「高齢だから進行が遅いということはありません」
「こんなにぴんぴんしているのに……」
父は恨めしそうに医師を見ました。
「2 カ月ほどすると大きく状態は変化するはずです」
「……。とすると、私はあとどれくらい生きられるのですか?」
「この状態だと平均的に3 カ月というところでしょうか。あくまでも平均ですから1年以上生きる人もいます」
父が肩を落としたことは言うまでもありません。
医師の話は、要は手の施しようがなく、自分としては緩和ケア病棟への入院をすすめるというものでした。
家にもどり、母に父の病気の事実を告げました。当然のことながら母の落胆は大きなものでした。父が肩を落とす母に笑って言いました。
「お母さん、そんなに嘆くな。嘆いたってしかたないよ。俺もショックだったけどね。くよくよしてもしかたない。
残された時間は短くても、前向きに生きたい。医者はホスピスに入れと言ったが、俺はこの住み慣れた家で最期を迎えたい。お母さんや子どもたちや孫たちに囲まれて残りの時間を過ごしたい。いいかい?」
「嫌なはずがないじゃないの」
母もようやく笑いました。
私は、早速その日の内に動き出しました。父の思いをかなえるためにはどうしたらいいか。これから父はどんな道を歩み、からだはどうなっていくのか。わからないことだらけでした。かかりつけの病院に相談しようかと思いましたが、ホスピスへの入院をすすめられるのだろうなと思い、他に相談できる所がないか考えました。
そうして、藁をもすがる思いで近くにある福祉用具のショールームに飛び込みました。
何をどうしていいかわからずきょろきょろしていた私に、カウンターの女性が声をかけてくれました。
「何かお困りですか?」
と。もし「何かお探しですか?」と聞かれていたら話はできなかったかもしれません。でも、「何かお困りですか?」と聞かれた私は、溜まっていたものをすべてぶちまけるように、洗いざらい話しました。途中からは上司の方も同席していただいて、父の状況から医者の見立て、父の希望、家の状況、不安、ありとあらゆることを話したのです。
「まず、主治医の先生と相談されて介護認定を受けてください。その上で、病状の進行に併せてご自宅での療養を可能にする住環境を考えられてはどうでしょう」
「山本(仮名)です」と名乗った男性の名刺には、福祉用具専門相談員の資格が入っていました。
「介護認定が下りるまでには時間がかかると聞きましたが。父に残されている時間は短いので……」
「大丈夫です。末期ガンなどの迅速な対応が必要な場合、市町村によっては申請があったその日のうちに調査を実施して要介護度認定を急ぐところもありますし、要介護度が決まらなくても暫定的なケアプランで、福祉用具のレンタルなどの介護サービスが受けられるようになっています」
「でも父は今のところ見た目には元気で、介護なんて……」
「それも安心してください。要支援1とか2、あるいは要介護1と判定されても、お父様の末期ガンのように急速に状態が悪化して、短期間で日常的な起きあがりや寝返りなどが難しくなると確実に見込まれる場合については、市町村の判断で福祉用具のレンタルも可能になります。それには主治医の先生の意見書や診断書が必要になりますし、ケアマネージャーを中心に、医師・医療担当者やヘルパー、私たち福祉用具専門相談員が参加するサービス提供担当者会議で適切なサービスの検討が行われます。こちらの場合、まず主治医の先生に相談されるのがいちばんいいかと思います。末期ガンでの自宅療養となると、訪問看護など医療的なケアがいちばん大切ですから」
冷静に1つひとつ丁寧に説明してくれるその姿が、とても頼もしく思えました。話を聞いていて、家族だけで立ち向かおうとしていたけれど、それはとても大変なことなのだとわかりました。
大勢の人に支えられて、大勢の人の力を借りて、みんなでいっしょに立ち向かう。家族だけで頑張り過ぎると、結局は父や母に苦しい思いをさせることになるかも知れないと思いました。この時山本さんに出会えていなければ、父の最期は違った形になっていたかもしれません。
私はその足で早速主治医の先生をたずねました。
主治医もはじめは、余命宣告をした医師と同様緩和ケア病棟への入院をすすめました。
家族に負担がかかること、緊急の対応が取りにくいこと、父本人にもそれがいちばんいいことなどが主な理由でした。それでも私が父の強い希望だから、どうしてもかなえさせてやりたい、そのためには家族みんなで支えるというと、主治医もようやくうなずいてくれました。
「そこまでおっしゃるなら、医療サイドとしても最善を尽くしましょう。だけど、ご本人が苦痛に耐えられないとか、自宅ではどうしようもない状態にいたったときには、私の言うことを聞いていただけますか」と。
その日の内にケアマネージャーさんが自宅を訪問してくれて話し合いをもち、早急に介護認定の申請をすること、最期を自宅で迎えることを最終的な目標にしてサービス提供担当者会議を持ち、暫定プランを作成することになりました。
まず、自宅内動線ごとに手すりを設置することが決まりました。
その上で、状態を見ながら特殊寝台、床ずれ防止用具の導入することなどが話し合われました。余命宣告を受けて1 週間も経っていませんでした。こちらから指名したわけではありませんが、山本さんが、我が家の担当としてサービス提供担当者会議に現れた時、すごく安心したことをよく覚えています。
それから2 カ月が経った頃、医師の言葉は現実のものとなりはじめました。次第に呼吸が不自由になり酸素ボンベが手放せなくなり、歩く足元がおぼつかなくなり、1 日の半分をベッドで過ごすようになりました。しかしそれでも食欲はあり、肉を食べたい魚は嫌だなどと我がままを言うほどでした。看護師さんは毎日訪問してくれるし、主治医も2 日に1 度は往診にきてくれる。薬も薬剤師さんが届けてくれる。
「まるで病院に入院しているみたいだなあ」
などと父も冗談を言いながら、けっこう毎日を楽しんでいるようでした。
半年が過ぎた頃にはほぼベッドで寝たきりの状態になりましたが、量は減ったものの食欲もしっかりしていて、好物の肉は毎日欠かせませんでした。
そうして、余命宣告をした医師はもちろんのこと、周囲の大方の予想をくつがえし、宣告の日から1 年以上を父は生き抜きました。主治医の先生は「強靭な生命力だ」と父の頑張りを誉めてくださいました。
でも私は、父の生きようとする力はもちろんですが、周囲の大勢のみなさんの支えが何よりも大きかったのだと思います。そして、そのことをいちばんわかっていたのは父に違いありません。
「みんな、ありがとう」
そう言い遺して、父は静かに旅立っていきました。
