あきらめない、あきらめさせない#65


主婦 駒井陽子(東京都在住・40歳)
父と母のお話をしたいと思います。
父は67歳。大手企業の研究所で長く研究技師として勤め上げ、定年を機に夫婦とも元気なうちにふるさと鹿児島に帰り、悠々自適の暮らしを楽しむはずでした。そう、はずだったのです。父の言葉を借りると、人生とはうまくいかないものなのです。
父は鹿児島に戻った1カ月後に脳梗塞で倒れたのです。
母が外出している間のことでした。母が帰宅すると、父は居間で倒れていました。慌てて救急車を呼び病院に搬送されましたが、発作を起こしてから5時間程度経過していたようで、治療の結果一命は取り止めましたが脳へのダメージは深刻でした。その上自発呼吸ができなくなる恐れがあるということで、気管切開をして呼吸器を着けることになりました。
着けるか否かの選択を迫られた母は、父が以前から「どんな姿になっても生き続けたい」と言っていたことから、躊躇なく装着を決めました。しかし主治医の先生からはこのまま意識が戻らないかもしれないし、たとえ戻ったとしても寝たきりの状態になることはほぼ間違いないと宣告されました。リハビリをしても、自分の足で歩くことはおろか、自分で食事をすることもできなくなると。
「お父さんは飲み助の食いしん坊だったから、きっとがっかりするわね」
母は力なく笑いました。
「何よお母さん。命あっての物種じゃないの。生きてるだけでハッピーだって思わないと」
私は努めて明るく振る舞いました。いちばん苦しいのは父なのだ。辛いのは母なのだ。私が暗くなっちゃいけないと。

私にはもうひとつ心配がありました。それは父の介護のことでした。病院に居られる間はいいけれど、症状が少なからず改善して退院、自宅療養ということになったら、主介護者になる母に大きな負担がのしかかるのではないかということでした。
私は東京で生まれ育ち、東京で結婚して家庭を持ちました。子どももまだ高校生です。東京鹿児島を往き来することはできても、ずっと両親のそばにいることは不可能なのです。父はもちろんですが、母のことがとても心配でした。

幸いにして父は意識を回復しました。主治医の先生の言葉通り、全身に麻痺があり左手がわずかに動く程度でした。ベッドに起き上がることも、寝返りを打つことも、もちろん言葉を発することもできません。水を飲むことすらできないのです。それでも母は喜びました。生きてくれているだけで幸せだと。
意識の状態はというと、認識する力も、考える力も大丈夫だということでした。言葉や身体で表現はできないけれど、ちゃんと自分の意思を持っているということです。母がさらに喜んだことは言うまでもありません。母は早速、看護師さんのアドバイスもあって透明文字盤を買ってきました。父が会話に耐えられるようになったら、それを使って会話するのだと。
どのように使うかと言うと、父は顔の上にかざされた文字盤を目で追い、母が一文字ずつ指をさして確認するのです。私が実験台になり何度か試してみました。少々時間はかかりますがけっこううまく会話できるのです。「これなら……」と母も療養生活を前向きに受け止める材料のひとつになりそうでした。ところが……。
「ナ・ゼ・ソ・ノ・マ・マ・シ・ナ・セ・テ・ク・レ・ナ・カ・ッ・タ」
それが父の最初の一言でした。呼吸器に繋がれベッドに縛り付けられて、ただただ生かされている。生きている意味があるのか。呼吸器など着けずにそのまま死なせてくれたらよかったのに、というのです。母のショックは激しいものでした。
「ソ・レ・ニ……」父は続けました。「オ・マ・エ・ノ・メ・イ・ワ・ク・ニ・ナ・ル」と。そうして「コ・ン・ナ・ジ・ョ・ウ・タ・イ・デ・イ・キ・テ・ナ・ニ・モ・デ・キ・ナ・イ」と言ったきり、会話にも応じようとしなくなったのです。

でも母はショックから立ち直ると、すぐさま行動を起こしました。
母は私に言いました。
「お父さんは長年研究者として活躍してきて、大きな実績を残して引退したのよ。まだまだ自分の好きなテーマをじっくり追いかけるんだって。それを生き甲斐にしてこれからの人生を楽しもうとしていたの。お父さんの落胆、失望は大変なものだと思うの。もうダメだってどん底にいるんだわ。でもね一時のことだわ、きっと。身体が動かなくても、声が出なくてもできることがあるってわかったら、きっとまた前向きなお父さんが帰ってくると思う」
母は、父と同じような境遇で頑張っている人を探し出して、父にその事実を知らせようとしたのです。
それだけではありません。母は、父との意思疎通に利用できそうな機器、福祉用具を調べはじめました。文字盤はその入り口のようなものでした。寝たきりになっても、身体の一部しか動かなくても、人生の目的を追求し続ける人のなんと多いことか。そうしてそういう人たちをサポートする機器、福祉用具のなんと多様なことか。
母がまず注目したのは、タブレットを使った音声発生器付きワープロアプリです。文字を入力すると、それを読み上げてくれるのです。
「これなら目の前の人なら音声で会話できるし、離れた人とならメールで話せる」と母。
「でも、左手が動いてもわずかだから、入力できるかしら」と私。
すると母は笑いながら
「リハビリになるじゃない」
と言いました。
指1本で手記を書いた人もいるし、入力用のスティックを咥えて小説やエッセイを書いている人もいると。なるほどという話でした。他にも困難に直面しながらも前向きに生きようとするすごい人はたくさんいました。
たとえばストレッチャーにうつ伏せに寝て舌でシャッターを切るカメラマン。たとえば人工呼吸器を着け、瞳の動きでスイッチのON/OFFを切り替えてコンピューターグラフィックを描くアーチスト。私がいちばん驚いたのは、ピンディスプレイという指先で凹凸を読み取るモニターを使って写真を撮る全盲の写真家でした。
要は、今の時代、「身体が動かないから」「言葉が出ないから」といって、何もできないなどということはないのです。本人があきらめるか、あきらめないかが問題で、あきらめないのならサポートしてくれる機器、福祉用具はあるし、なければそれを開発しようというエンジニアはたくさんいるのです。それは逆のことも言えるのです。あきらめてしまえば、どんなに優れた機器、福祉用具があり、エンジニアがいても、何もできない。
〈身体が動かないから何もできない〉から〈身体は動かないけどこうすればできる〉へ。
母は父と一緒にそれを目指したいと、きっぱり言いました。「そのためにお父さんと一緒に生きていく」と。
父の状態が落ち着いたことを見届けて東京に戻った私に、母からテレビ電話がかかってきました。その中で母は文字盤を使って父と会話をしてくれました。父が視線で追う文字を、母が声に出して読み上げました。
「ア・キ・ラ・メ・ナ・イ」「リ・ハ・ビ・リ」
母は父と同い年の67歳。高校の同級生で、東京の同じ大学、同じ学部で学びました。もう50年以上の付き合いになると笑います。
母は50年目に訪れた生活の激変に落胆することなく、あたかも新しい生活を楽しむかのように日々笑顔で過ごしています。
