希望の輪#66


ヘルパー 小園洋子(仮名 50歳)
私は30歳の頃からずっと介護に明け暮れてきました。
これは介護保険制度の歩みとほぼ重なっています。誤解のないように言っておきますが、これは介護保険制度に問題があるという話ではありません。私自身この制度によってずいぶん救われました。でも、同じくらい大切なことがあるということをお話ししたいと思います。
最初の10年は祖母の介護。当時祖母は70歳でした。祖母の妙な言動に気づき、渋る祖母を説得して脳神経内科を受診した結果、アルツハイマー型の認知症だと。その時の正直な気持ちはというと、「ああ大変なことになったな」というひと言につきました。患者本人である祖母よりも、私たち家族が介護で大変になるという思いでした。当時「介護地獄」が大きな社会問題になり、それをなんとかしようと介護保険制度がはじまったばかりの時期でした。
当時は父と祖母の3人で暮らしていました。母は高校生の時に亡くなり、2歳年上の兄は独立して離れた土地で暮らしていました。祖母の介護は当然私の〈仕事〉になりました。出版社に勤め、仕事もバリバリやりたかったのですが、家族だから、大好きな祖母だから、私しかいないからと自分を納得させました。会社は退職しましたが、フリーの校正者として仕事を続けさせてもらうことにしました。そうして私の介護人生がはじまったのです。

お医者さんからは祖母のその後の症状進行について説明があり、治療はもちろん、その後の療養生活や必要な介護などについて丁寧に説明してくれました。介護認定を受けましたが、結果は要介護2。見守っていれば問題なく日常生活をおくれる。自立的に暮らせるという判定でした。しかしこの「見守っていれば」というのが問題でした。正直に言います。地獄でした。ここで事細かに祖母の症状、言動をお話ししません。認知症で在宅療養をする家族の介護はどれほど大変かは、様々なところで語られている通りでした。それによって私のすべてが祖母に破壊されていく。そんな気分でした。
もっと厄介なことは、私が祖母のことを大好きだったということです。だから、いちばん苦しく、いちばん辛いのは、患者本人である祖母だということもわかっていました。なのに私は祖母のすべてが自分勝手でわがままで、わざと私の邪魔をしていると思い込んでいたのです。仕事も、平穏な暮らしも、すべて奪われてしまった。祖母は病気なのだと自分に言い聞かせましたが、思いはどんどん屈折していく一方でした。
親戚や友人もどこか他人事で私のことなんか誰もわかってくれない、そんな思いでした。しんどいのは私だけだと。愚痴をこぼす相手もいない、一緒に悩んでくれる人もいない。孤独というか、孤立というか。自分にだけ苦労を押し付けられているという疎外感。そこに24時間目を離せず食事も睡眠も満足にとれない疲労感。これが介護地獄なのだと思いました。
施設への入所も考えましたが、待機者が多く……。考えてみれば祖母より症状の重い人も多いはず。諦めからでしょうか、祖母はずっと私が見守り、介護したいと前向きに思うことにしました。苦しいはずなのに、です。

診断がついて7年。祖母は脳梗塞を併発し、半年の入院を経て他界しました。大好きな祖母を喪って悲しいはずなのに、介護に明け暮れる日々から解放されたという安堵感を感じていました。介護地獄から解放されたと。一方でそんなことを思う罪悪感が私をさらに苦しめました。
ところが翌年、父が脳梗塞で倒れました。左下半身に麻痺が残りましたが、退院後介護保険では入浴の介助とデイサービスに通うことくらいで、家の中での生活は歩行器やちょっとしたサポートがあるとほぼ不自由はありませんでした。言葉も普通に出たし、祖母のように意思の疎通が難しいわけではなく、なんとかやって行けそうだなと思いました。
しかし問題は私にありました。父にそんなに手がかからない分、時間を持て余すようになったのです。校正の仕事も時間があてにならない私には、あまり回してもらえなくなっていました。そうかと言って、父のことが心配で勤めに出るわけにもいきませんでした。自分のことは自分でやりたい父に必要以上に手出し口出しをするので、諍(いさか)いが絶えませんでした。祖母の介護に明け暮れ、そのことだけを目的のようにして生きてきて、その目的を失くしてどうしようもないそんな感じでした。ここだけの話ですが、祖母の介護で婚期も逃していましたし(笑)
そんな時です。父の介護を担当する担当者会議で集まった皆さん全員がオレンジのリングをしていることに気づきました。それはなんですかとたずねると、ケアマネジャーさんが「認知症サポーターのしるしですよ」と教えてくれました。認知症サポーターとは、
〈認知症に関する正しい理解と知識をもち、地域や職域で認知症の人や家族に対して、可能な範囲で手助けをする人〉
〈90分の養成講座を受講するだけで誰でもなることができる*〉
〈特別な職業や資格ではなく、自分の日々の暮らしの中、活動の中で認知症への理解と支援の心をもって行動する〉
ということも教えてくれました。2005年から養成がはじまったということも。その上でそのケアマネジャーさんはこう言い足したのです。
「洋子さんは長くお祖母様の介護をされていましたね。その経験を患者さんやご家族にしてあげるだけでも、ずいぶん力になれるのじゃないかしら」
考えてみれば、祖母や私は患者会にも家族会にも入っていませんでしたし、お医者さんやヘルパーさんの声に耳を傾けるゆとりもなかった。全くの孤立状態でした。これを振り返って「介護引きこもり生活」って自分で言っていますけど(笑)社会から孤立していたのですね。
もし祖母の介護をしていた時に周囲に認知症サポーターがいてくれたら、私は〈介護地獄〉から救われていたかもしれないし、少なくとも愚痴をこぼしたり悩みを相談したりすることはできたはずだと思いました。そうして今もあの頃の私と同じように苦悩している人が大勢いるはずだとも思いました。もちろん私が認知症サポーター養成講座を受講したことは言うまでもありません。あわせてヘルパーの資格も取ることにしました。生きる道を見つけた! そんな感じでした。
認知症サポーターは「なにか」特別なことをやる人ではありません。
認知症の人や家族の気持ちを理解するよう努めること。商店・交通機関等、自らの働く場で、できる範囲で手助けをする。それだけのことです。でも、オレンジリングをした人がそばにいるだけでも大きな支えになることは、私がいちばんよく知っています。
今私はヘルパーとして多くの人の暮らしを支えています。オレンジリングは介護の現場で会話のきっかけになったり、相談のきっかけになったりしてくれています。いつも私の腕にあって、良き相棒として力を発揮してくれているのです。
オレンジリングは、小さいけれどある意味ひとつの福祉用具。私も認知症サポーターの1人として、この小さな輪を認知症に悩む人々のための大きな希望の輪に育てていきたいと思っています。
*令和元年12月末時点で約1,200万人の認知症サポーターがオレンジリングを携え、認知症の人とそのご家族を支える活動に加わっています。
